小松秀樹『医療の限界』講師解答例

リベラル読解研究

小松秀樹『医療の限界』について

この本の著者である小松先生は山梨医科大学や虎の門病院を経て、現在、亀田総合病院で副院長をされています。

昨年12月21日()には小松先生を招いて講演会および生徒を交えた公開討論型授業を実施しました。たいへんな盛況ぶりでした。リベラル読解研究の授業で学んだ内容について、そして先生の講演について生徒が積極的に質問したり、意見をぶつけたりしました。本の著者から直接指導を受けられる貴重な場となりました。パネラーは、代々木ゼミナールの現代文・小論文講師であり、Y-SAPIXでリベラル読解研究を担当している藤井健志先生でした。

同様の企画を今後もY-SAPIXでは企画していきます(2014年4月27日()午後に湯浅博雄東京大学名誉教授を招聘する予定です。詳細につきましては後日お知らせいたします)。

リベラル読解研究では小松先生が2007年に出された『医療の限界』です。震災を挟んで出版から時間が経過していますが、ここには医療の本質的な問題が浮き彫りにされています。例えば医師と患者をめぐる問題が挙げられます。医療は本来、不確実なものであり、けして無謬ではないと小松先生は考えています。医学は常に発展途上で限界がありますし、医療行為にはリスクがつきものです。にもかかわらず、医療の無謬を信じて病院を訪れる患者は少なくありません。

この本では小松先生がかつて勤務していた虎の門病院の話を取り上げて、

①「説明責任の徹底」
②「各医療従事者の自発性の尊重と責任の明確化」
③「透明性を高めること」

の重要性を説いています。医局制度、大学院教育の在り方、医療における教育、評価、人事はどうあるべきかなどについての著者の意見を踏まえて今後の医療の在り方について意見を出し合いました。

講師解答例は次のとおりです。

講師解答例

講師解答例1

現代社会は、生活が便利になり、ライフスタイルの多様化・個人化の進む時代である。血の繋がりや生まれた土地などに束縛されることなく、人生のあらゆる部分を、自分で自由に選択することができるようになった。科学の進歩で日常生活の雑多な業務が楽になり、一人でも生きることが可能だし、できないことやわからないことがあっても、インターネットで検索すれば大概は解決策が手に入る。そして便利さと自由な選択に慣れ、それを自然なことと受け止める現代人は、医療に関しても当然のように同様のことを期待するようになった。医療は手軽かつ自由に手に入れられるはずだし、治せない病気は年々減少し、手術は成功するものだと。このように、現代社会の風潮に慣れた人々が医療にもそれを適用しようとした結果、現在の医者と患者の齟齬が生じたと私は考える。

一方、現在では、ライフスタイルの多様化・個人化をもたらした大きな要因である情報化社会により、一見「個人化」と反するようではあるが、世界中の人が情報を共有し、さらにネットワークでつながることが可能となった。私は、これが医療の今後を切り開くと考える。たとえばかつての医療においてよく見られたパターナリズムが、インフォームド・コンセントへと変わりつつあるのは、情報化によって患者側に病気についての知識が増え、かつての無知蒙昧な患者ではなくなってきたことが一因だ。またインターネットを利用することで、病院の垣根を超えた医療従事者同士の協力もとりやすくなるだろう。現代社会は一面では医者と患者の齟齬を招いたが、逆に医者と患者、あるいは医療者同士の断絶をなくす方向にも進んでいる。

このような状況において重要なのは、医療は公共財であることを患者側が認識することだろう。医療を通常財のように考えて、個々人にとっての便利さばかりを求めてはならない。日々のライフスタイルにおける考え方を医療に安易に当てはめなければ、書籍で述べられた医療事故に対する考え方の齟齬もここまで大きくはならなかったはずだ。そうして、医療に対する過度な要求がなくなれば、情報化によって様々な断絶がなくなりつつある現代において、医療はひらかれた、明るいものになるだろう。

講師解答例2

かつて医療が十分に進歩していなかった時代、病気や怪我に対する恐怖は今よりも遥かに大きいものだった。衣食住の環境が悪かったこともあり、大衆にとって人の死はとても身近な出来事だった。しかし時代が下るとともに、医療技術は格段に進化していった。それまで多くの人が死んでいった難病や感染症も魔法のように治せる優れた存在として、医師は患者から「先生」として崇められるようになった。医師には患者の希望とは無関係に、自己の専門的判断を行うべきだとする「父権主義」すら認められていた時代があったという。医師は人の運命を左右する重要な職業として、高い社会的地位を有していたはずだった。

やがて医療が世間一般に享受できるものとなると、医療は患者によって主導されるようになった。情報化社会の波にのまれた大衆は、医療の進化に比例してその確実性をより強く追い求めようとした。そのような極端な医療への期待が、ここで筆者が医療崩壊を引き起こす原因の一つとして挙げた「医療従事者と患者の軋轢」を生じさせたのである。

だが私は、医療が人の生命に関わるものである以上、医療従事者と患者の主張に齟齬が生じるのは不可避であると考える。患者の生に対する執着、現実と向き合わざるを得ない医師、その是非は誰もが安易に判断できるものではない。ましてや、医療過誤そのものをなくすというのはあまりにも非現実的な見方である。

ならば医療崩壊を導く様々な要因をどのように解消していくべきか。ここで、本書でも触れられていた「医療と司法の世界の違い」に焦点を当ててみたい。日本では二〇〇五年四月、唯一の専門裁判所として知的財産高等裁判所が発足したが、医療訴訟についても医療訴訟を専門とする裁判所を設立してはどうだろうか。割り箸事件によって多くの救急病院が救急医療から撤退したように、司法裁判において不必要に患者側に寄った判決を下せば、医療側は極度に拒否反応を示す。それは類似した事例の訴訟を増加させる意味も持ち合わせており、さらに医療は圧迫されることになる。しかし医療の専門家がその事例に関与し、専門的な知見から公平な判断を下すことができれば、双方の反発も最小限に抑えることができるはずだ。そのような判例は医療従事者にとっては医療事故を防ぐための改善策として、患者にとっては医療訴訟を起こす際の手本として、今の医療における最大の問題を解決へと導いてくれるだろう。

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