リベラル通信 2019年5・6月号

令和元年になりました!

5月から元号が「令和」に変わりました。みなさんは、「令和」という元号を聞いたとき、どのようなイメージを持ちましたか?

「使役の句法だ!」と思った方は、よく漢文を勉強している方ですね。巷(ちまた)でも「和せしむ」と読めるので「和」を強要されているように感じる、といった意見もあるようです。

しかし、ここでの「令」は、「深窓の令嬢(身分の高い家庭で大切に育てられた娘)」などで用いられるような「よい・立派な」という意味で捉えるのがよいでしょう。なぜなら、「典拠」とされている作品が、そういった意味で「令」を用いているからです。

これまでの元号の典拠

「令和」の前に、一世一元となってからの元号の典拠をみていきましょう。

「明治」は、『易経』の「聖人南面して天下を聴き、に嚮(むか)ひてむ」。「大正」は、『易経』の「いに亨(とほ)りて以てしきは、天の道なり」。「昭和」は、『書経』の「百姓(ひゃくせい)明にして、萬邦(ばんぽう)を協す」。「平成」は、『史記』の「内(たひら)かに外る」、あるいは『書経』の「地かに天る」が典拠とされています。

ご覧のとおり、今までの元号は漢籍から採られていることがわかります。

「令和」の典拠

「令和」の典拠は、『万葉集』巻第五の「梅花(うめのはな)の歌三十二首」の序、「時に、初春の月にして、気淑(よ)く風(やわら)ぎ(初春のよい月〔=旧暦1月〕で、気候は快く風は和らいで)」という箇所とされています。この「梅花の歌三十二首」は大伴旅人(おおとものたびと)の家で宴会が開かれた際、梅を題材にして参加者が詠んだ和歌を集めたものです。

初の国書を典拠とする元号として注目されていますが、典拠は和歌の部分ではなく、四六駢儷文(しろくべんれいぶん)という漢文で書かれた序文です。「梅花の歌」の序を原典の通り白文で書いてみると、「于時、初春月、気淑風、梅披鏡前之粉、蘭薫珮後之香」となり、ほとんど4字か6字で構成されていることがわかりますね。このような文体を四六駢儷文と呼び、中国の六朝(りくちょう)時代に流行し、日本でも奈良時代によく用いられました。

六朝時代、梁(りょう)の昭明太子(しょうめいたいし)によって編纂された『文選(もんぜん)』がこの文体を採っていることで有名ですが、今回の「梅花の歌」の序も、どうやら『文選』からの影響がみられるようです。

『文選』巻十五の「帰田賦(きでんのふ)」に「是(ここ)に於(おい)て仲春月、時(わ)し気清し(さて仲春のよい月〔=旧暦2月〕で、気候は和らいで大気はすがすがしい)」とあります。書き下しでは分かりにくいので、あえて白文で書きましょう。「於是仲春月、時気清」となり、上の「梅花の歌」の序と字句の構成が似通っていることがわかりますね。詠まれている時期が少し異なっていますが、表現上の影響は見て取れます。

また、「梅花の歌」の序の文章構成は、王羲之(おうぎし)の「蘭亭序(らんていじょ)」を模しているとも言われています。蘭亭という場所で、小川の上流から杯を流し、それを取った者が一首ずつ詩を詠むという「曲水(きょくすい)の宴(えん)」を開催した際、王羲之がその詩集の序文として書いたのが「蘭亭序」です。宴会で杯を交わしながら詠まれた詩のアンソロジー(選集)であるという共通点から、参考にされたのでしょうか。

古典の世界における「典拠」の認識

故事や過去の著名な作品のフレーズなどを「典故」や「典拠」とした表現が、古典作品の中にはたくさんあります。現代では「盗作」や「パクリ」などと言われてしまうかもしれませんが、古典におけるそれは、むしろ「オマージュ」や「リスペクト」といった類のものであり、過去作品の文脈を踏まえているということは良い作品の条件でした。

たとえば、和歌には「本歌取り」という技法がありますし、物語文学のなかでは登場人物が場面に即した古歌をくちずさむことがしばしばあります。また、中国文化へのリスペクトとしては、『平家物語』の冒頭部分で「遠く異朝をとぶらへば」といって、中国における盛者必衰の例を挙げていく箇所があります。現代であれば、なぜわざわざ「異朝をとぶら」う必要があるのかという疑問の声が挙がるかもしれませんね。

この背景には、前近代と現在との「知」に対する認識の違いがあります。前近代の日本では、「どの書籍のどの箇所にどのようなことが書いてあるか」を詳しく知っていることが、知識人の条件でした。故事や過去作品の表現を踏まえられるということは、それだけで権威であったわけです。

一方で、現代においては、あらゆる資料がデータベース化された結果、どこに何が書いてあるかを知らなくとも、キーワードで検索すれば誰でも見つけることができるようになっています。そのため、前近代的な「知」の価値は低下し、「知」の重心は創造性に移ってきています。

しかし、まったくの「無」から何かを創造することは可能でしょうか。『万葉集』が『文選』や「蘭亭序」を踏まえているように、現代の私たちの表現も、歴史的文脈を踏まえているはずです。私たちの表現の源は何であるのか、「オマージュ」と「パクリ」の境界線はどこにあるのかなど、古典を通して考えてみるのも面白いでしょう。

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7月期『漢文脈と近代日本』

改元にあたり、「令和」の典拠についてここまで見てきました。国書に典拠を持つ元号にしてもなお、背景に漢籍の存在がちらつくように、中国の古典文学である漢文が日本文化に大きな影響を与えていることがお分かりいただけたでしょう。漢文を学ぶことは私たちの文化のルーツを知る手がかりにもなります。

『万葉集』のような文学作品のほかにも、奈良・平安時代の日本は、中国を国のあり方のモデルとし、律令制を敷いていきました。また、ひらがなやカタカナが生まれたのも平安時代前期ですが、いずれも漢字から生まれたものです。宗教の面でも、中国から伝来した仏教が隆盛しました。

実際に扱う本書の序章では、主に江戸時代の漢文教育に焦点が当てられています。江戸時代の日本では、幕府の主導で、武士階級を中心に朱子学(儒学)を学ぶことが推奨されるようになりました。その目的は、四書五経などの朱子学における主要なテキストから、武士が統治者階級として身につけるべき精神を読み取り、習得することでした。

当時の漢文学習の方法は、四書五経などの漢籍を書き下し文で読む「素読(そどく)」から始められました。ある程度学習が進むと、文章の解釈について討論をすることもありました。

こうした漢文教育を通して日本で広まっていった、朱子学に基づく基礎教養 —筆者は「漢文の素養」と呼んでいます— の影響は、近代になっても様々なところに表れています。

現在こそ漢文を目にする機会は減っていますし、ましてや社会生活のなかで漢文の読解力が求められることはまずないでしょう。しかしながら、それでも国語の教科書には漢文が掲載され、大学入試の科目の一つにもなっています。その一つの大きな理由として、中国の文化の影響を考えずして、日本文化を語れないほど、両者に深い関わりがあるからです。具体的にどのような関わりがあるのか、身近な例も含めて授業を通して一緒に考えていきましょう。

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※次回のリベラル通信は夏号です。

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