リベラル通信 2018年夏号
大学入試問題と「相手を知ること」
中国の故事に「彼(=敵)を知り、己を知らば百戦殆うからず」(孫子・謀攻)とあります。この故事が示すように、勝負を制するには、相手の実力をよく知ることが必要であることは言うまでもありません。ところで、大学入試を勝負事とした場合、ここでいう「彼」とはいったい誰を指すでしょうか?そのことを少し考えてみたいと思います。
大学入試の現代文や小論文では、大学や学部は異なるものの、同じようなテーマが取り上げられることがあります。
前回の「リベラル通信」でも取り上げた2018年度慶応義塾大学文学部小論文では「自由とは何か」が問われましたが、その他の大学の国語・現代文の入試問題でも「自由」についての文章が出題されています。
例えば、2018年度早稲田大学教育学部の入試問題(稲葉振一郎『政治の理論』)では、「自由」そのものの意味を問う文章が出題されています。そこにおいて、筆者は「自由」を大きく二つに分けて説明しています。第一の「自由」とは、主観的には「私は自由だ」という意識をもちつつも、自己の選択行為が様々な見えない力であらかじめ決定されている状態を指します。一方、第二の「自由」は、それとは対照的に、他者などの外部からの干渉を免れている状態だとしています。 そして、設問の多くが、このふたつの「自由」の定義を確認するものとなっていました。ここでも、思想・哲学を扱った文章でおなじみのハンナ・アレントやフーコーの名前が出てきます。
一方、政治・社会とは異なる視点から自由を題材とした入試問題もあります。例えば、2018年度大阪大学人間科学・外国語・経済・法学部の入試問題(猪木武徳『自由の条件―スミス・トクヴィル・福沢諭吉の思想的系譜』)では、十九世紀のフランスの政治思想家、トクヴィルのアメリカにおける自由労働と奴隷制に対する見解を題材に、政治経済的な側面から見た「自由」を論じています。トクヴィルは、オハイオ川両岸の二つの州を観察した結果、自由労働を採用するオハイオ州は奴隷制を維持するケンタッキー州よりも生産性が高いこと、奴隷労働はコストがかかることを見出しました。そして、このトクヴィルの洞察を受け、筆者は自由経済と計画経済との比較へと議論を展開していきます。設問も、ふたつの労働形態の比較方法やその意味を問うものになっています。
ちなみに、同じ著者の別の文章が同年の早稲田大学政経学部の入試問題(『自由の思想史―市場とデモクラシーは擁護できるか』)に取り上げられていました。その内容は、「賭け」という行為を人間の経済生活との関わりから論じたものです。直接、「自由」を扱った文章ではありませんが、「賭け」と「投機」、「投機」と「投資」の違いを詳細に述べたのち、経済学者ケインズの「投資」に対する見解を紹介しています。この「投資」や「投機」という行為は、将来の不安に対する人間の反応に起因するものです。このような文章に触れることで、経済学とは本来、人間の行動や社会の仕組みを明らかにし、変化する社会の中で生きていくための武器になる学問であることを認識してほしいと思います。
このように、大学や学部が異なるにもかかわらず、同じようなテーマの入試問題が出題される理由のひとつに、入試作成者が大学教員=研究者であることが考えられます。かつて大学は「象牙の塔」とよばれ、現実社会とかけ離れた存在だと考えられてきました。しかし、実際には、そこに所属する研究者の大半は、現代社会が直面する諸問題を表面的ではなく原理的に解明するため、諸理論や各種調査、実験に基づき、それらを分析することを生業としています。さらに近年では、社会問題そのものが複雑化したことから、多くの研究者たちは国内外の同業者のみならず、関係機関や企業と協力して研究活動をしています。また、そういった共同研究による「ヨコ」のつながりを通じて、研究者同士が自然と問題意識を共有する傾向にあります。
このことは、大学入試問題の作成に多少なりとも影響を及ぼしているように思われます。つまり、同じような関心を持った研究者がそれぞれの大学で入試問題を作成した場合、似通ったテーマの問題が出題されるということが起こりうるのです。
ということは、入試作成者である研究者がいま何を考えているのかを少しでも知っておけば、切り口となるテーマが絞り込めるので基本的にはどのような文章にも対応可能であるといえます。いわば、大学入試において「彼を知る」ことを意味します。リベラル読解論述研究では、研究者たちが執筆した、もしくは彼らが基本的に読んでいる書籍を分析的に読解し、意見を重ねる過程においてそれを批判する能力を培うことを目的にしています。Y-SAPIXの授業に参加することで、「彼を知り」、「百戦危うからず」に一歩でも近づくことができるといえます。ただし、その前に「己を知る」ことが必要なのは言うまでもありません。夏期講習で実力アップを目指しましょう!
リベラル読解論述研究 書籍紹介
中学生の使用書籍紹介
- 中2 …… 夏期『いのちを〝つくって〟もいいですか?』島薗進
- 生命倫理。しばしば、小論文の課題文などでよく目にする言葉です。人類はこれまで、できるだけ多くの生命を救い出すために、科学や医療技術の分野で研究を進めてきました。しかし、その技術が一定の水準まで達した現代では、さまざまな問題も同時に浮かび上がってきます。本書は「親の希望する子供が産めるようにしてもよいか?」「理想の人間をつくってもよいか?」など、生命にまつわる倫理的な問いを、実際の科学技術の進歩を踏まえて考察していきます。本書の中では、出生前診断など、すでに現実世界で実用化が進んでいる技術も多く紹介されています。つまり、すでに「いのちをつくる」「いのちの始まりから終わりまで、人間がコントロールできる」という事態は、現実味を帯びてきているともいえます。しかし、技術の進化が進めばどのような問題が起こりうるのか、その時人々はどんな問題意識を持って生きたらよいか。人間の倫理の根本に関わる問いを、私たちに投げかける一冊です。
高校生の使用書籍紹介
- 夏期『苦海浄土』石牟礼道子
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みなさんは「水俣病」という病気を知っているでしょうか。戦後から高度経済成長期にかけて、工業技術の進歩により、日本の産業は大きな発展を遂げました。しかし、その弊害として日本の各地域では水質や大気の汚染が進み、それに由来する健康被害も多く報告されました。このうち、特に規模の大きかったものは「四大公害病」として現在でも知られています。水俣病はこの四大公害病のうちのひとつであり、被害の中心となった地域では、住民は重い症状に苦しみ、中心産業だった漁業も成り立たなくなりました。
本書は水俣出身の著者によって、水俣病に侵された土地と人々の当時の姿が、方言を交えながら克明に記録されています。水俣病によって失われた日常、その中の小さな幸福を語る住民の言葉を拾いながら読んでいくと、人々にとって本当の幸福とは何であるかを考えずにはいられません。この夏、ぜひじっくりと読んでもらいたい一冊です。
※今年度の全国論文コンテストの課題書籍は山崎史郎『人口減少と社会保障』(中公新書)に決定しました。締切は9月20日(木)必着とします。
※次回は夏期講習号の予定です。