第23回 東大入試プレ問題分析〈国語・現代文〉

東大研究室

« 東大入試プレ問題〈数学・問題1〉の解答はこちらをご確認ください。

今回は国語(現代文)の問題です。
東大入試プレ問題にチャレンジしてみましょう。

国語〈現代文〉

文科・理科共通の第1問では、3頁程度の文章に適宜傍線が引かれ、「どういうことか」あるいは「なぜか」を60〜70字程度で書かせる説明問題が4つ、全体のまとめ的な要素を含む120字の説明問題が一つ、そして漢字の書き取りという設問構成が10年以上踏襲されている。

文章のテーマは芸術・文化・現代社会などと多岐にわたるが、特定の専門分野に関する特殊な知識を要求しているわけでないことはいうまでもない。文章の構成を意識し、論理的に文章を追っていけば、文意をとることはそれほど困難ではない。むしろ差が
つくのは、解答欄の大きさに合わせて、緻密に本文を追い、簡潔にまとめなおすことができるか、どうかである。

今回はまず、「どういうことか」というきわめてシンプルでありながら代表的な設問形式をとりあげ、取り組み方の基本を再確認し、〈残念な答案〉を回避して合格点をとるための対処法について触れておきたい。

次の文章を読んで、「知の道具的知への転換」(傍線部)とはどういうことか、説明せよ。

「倫理」は、ソクラテスが彼以前の「自然について」探究した人々と袂(たもと)を分かち、自らの知の対象を人間的なものへと向け変えたとき、ひとつの学問の領域として成立したと考えられている。近代性もまた自然的なものを人間的なものに変えようとする試みであったと解するなら、近代性のプロジェクトはソクラテス的転回に通じるものと解されることになる。

しかしこのことに惑わされてはならない。それゆえ倫理的パラダイムを口にするとき、ソクラテス的哲学の意義、つまりそれが「倫理」と同時に「人間的自然(本性)」のいっそう高次の理解を含んでいたことをもう一度理解しなおす必要がある。つまり近代的自然理解とソクラテス的自然理解の違いに目を向けなくてはならないのである。両者の間には大きく異なる点が二つある。

ひとつは、近代のプロジェクトでは自然から人間的なものへの変換が重視されたにもかかわらず、「倫理」が中心的位置を占めることはなかった。たしかに近代の著作家にもスピノザのように「倫理学」を著作の書名に採用した人もいたが、それはアリストテレス的なそれではなかった。古典的な倫理と近代的な倫理の違いを考えるとき、それを基礎付ける自然の捉え方が決定的に異なるのである。その違いは宇宙論の差に基づく。

もうひとつは古典的な思考には自然支配の考えは認められないという点である。近代的な思考では、自然は人為によって束縛され制御されるべきものであるのに、古典的な思考では、自然は人為が従うべき規範でさえあった。反対に近代の思考にあっては、自然はわれわれの意志に従って整序されるのである。自然理解の違いから、自然に対する問いも異なったものとなる。それゆえ近代性にあっては自然が何であるかを問う必要はなくなり、自然がいかに在るかが問われさえすればよかったのである。

しかし両者の差異に目を向けることによって、近代的思考の欠落点とそれを超え行くための突破口がどこにあるかが明らかになる。近代的思考は自然にせよ人間にせよそれらが何であるかを問わなくなった、つまり哲学的な問いを後景に退けることをその特徴としていた。哲学的な問いは推論の首尾一貫性や厳密性に置き換えられたが、それは知を道具化することを意味した。科学へと読み替えられた哲学はそれによって成功を収めた。要するに知の道具的知への転換こそ近代的思考成功の秘訣だったのである。

問題はこの点に存する。われわれは「力」となる「知」を手にし、敵対的であった自然を操作できるものに作り変え、自然を手なずけ支配下に置くことに成功したが、それと引き換えに、何のためにという生への問いを封印することになったのである。

(石崎嘉彦『ポストモダンの人間論』)

  • アリストテレス — 古代ギリシアの哲学者。ソクラテスを師と仰いだプラトンの弟子。
  • 宇宙論の差 — 古典的な宇宙論では、人間と自然を含んだ宇宙の総体に神的な秩序を見いだしているが、近代的な宇宙論においては、宇宙は合理的な秩序をもち、その中で人間と自然は対立的に存在すると考えられている。

解答例と解説を表示

解答例と解説

解答例
人間や自然が何であるかを問う哲学的な知を、自然を支配するための手段として、自然の在り方だけを問う科学的な知へと変えたこと。
解法のポイント

「どういうことか」とは、原則的には、「ほかのことばで言い換えよ」ということである。

ことばで書かれた内容を、ことばを使って説明するのだから、どうしてもそういうことになる。ただ、注意しないといい切れていない部分があったり、よけいなことを書いてしまったりすることになる。その点で、緻密さが要求されるというわけである。

「道具的知」とは傍線部の前にある「知の道具化」への言い換えである。この「知の道具化」については、比較的イメージがわきやすかったのではないだろうか。

本来の「知」は総体的なもので、何かのための「道具」ではないはずなのに、それが「道具」「手段」のようにみなされ、扱われるというのが「道具化」である。本文に即して言えば、近代において自然を支配するための「道具」になってしまったということだ。(ついでに書いておけば、本文にあるような「近代」の在り方や、その自然に対する姿勢がさしまねいた問題点について、一定の理解をしておくことは有効である。)

傍線部を段落単位、あるいは文章全体のなかで位置づけ、その意味を考えていこうとしなければならない。やってはいけないのは、逆に傍線部を出発点として、その場しのぎに前後をたどっていくことだ。今回の例では、傍線部を前にたどって「知を道具化する」をみつけ、さらに前の「哲学的な問いは推論の首尾一貫性や厳密性に置き換えられた」あたりを引用して済ませようとすること。こうすると、理解をしないままにただ引用しただけの答案ととられかねない。

傍線部で説明すべきは「道具的知への“転換”」であるから、「本来の在り方」と「道具的な在り方」とを対比的に配置し、前者から後者への「転換」という答案の組み立てを構想することができるだろう。

本来の「哲学的な知」は、自然や人間が何であるかを(根本的に)問うものであるが、近代は、その知を「科学的な知」へと転換させ、自然を支配下に置くことに成功した。すなわち、科学的知は自然支配(という目的)を達成するための手段として用いられたので、自然とは何であるかを問う必要はなく、支配の対象としての自然(の仕組みや性質)がいかに在るかを問い、それを解明すればよいことになった。自然とは何か(自然の本質)は棚に上げ、自然を支配するために、それがいかに在るかさえ問われればよかったのである。

解答では前半に「哲学的な知」、後半に「科学的な知」の説明を配し、前者から後者への推移という形をとった。字数のバランスにも着目してほしい。

なお本文では、「推論の首尾一貫性や厳密性」や、「何のためにという生への問いを封印」といった言い回しがみられる。こうした表現を安易に引用すると、説明として冗長になったり、必要でない内容が図らずも含まれてしまったりすることにもなる。安易に引用して済ませようとすることは戒めたい。

「Y-SAPIX Journal 2011 AUTUMN」より転載

次回は、「東大入試プレ問題分析〈英語・問題2〉」を掲載予定です。

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