内田樹『寝ながら学べる構造主義』講師解答例

リベラル読解研究

内田樹『寝ながら学べる構造主義』について

リベラル読解研究では、内田樹『寝ながら学べる構造主義』(文藝春秋)を扱いました。

私たちは特定のイデオロギーを「常識」とする「偏見の時代」を生きている、と筆者は述べています。これは「構造主義的な」問題の立て方以外の何ものでもありません。構造主義の考え方を、筆者は次のように説明しています。

  • 人は必ずある時代・ある地域・ある社会集団に属しており、それがものの見方・感じ方・考え方を根本的に規定している。
  • 自分が思うほど主体的・自発的にものを見ているわけではない。
  • 所属集団の条件に合致するものだけを「見せられ」「感じさせられ」「考えさせられ」ている。
  • それ以外は無意識に排除し、感受性に触れることも、思索の主題にもならない。

授業では、ソシュール、フーコー、バルト、レヴィ=ストロース、ラカンらの思想に触れ、構造主義を学びました。私たちは「エクリチュールの囚人」である、とバルトは言います。エクリチュールとは、社会集団的な「好み」として選択される「ことばづかい」のことで、例えば「おじさん」と「教師」と「営業マン」とでは、その立場の違いから語り口が異なります。

以上の内容を踏まえて、「構造主義」「エクリチュール」について自分が考えることを、書籍に登場した思想家を取り上げながら、意見を出し合いました。講師解答例は次のとおりです。

講師解答例

相対性理論であまりに有名な物理学者アインシュタインは「ある人の価値は、何よりも、その人がどれくらい自分自身から解放されているかということによって決まる」という言葉を残したそうだ。脳科学者として活躍する茂木健一郎が著書のなかで引用していたのを読んで初めて知ったが、指定書籍を読んだ後にこの言葉がふと思い出された。

アインシュタインのこの言葉は、レヴィ=ストロースの態度にも通じるところがあると思われる。具体的に指摘すれば、サルトルが「歴史には法則がある」として自らの立場を絶対化したのに対し、彼はこれを退けた。彼によれば、文字すら持たぬ「未開」社会を生きる人々の思考と文明の利器であふれた「先進」国の人々の思考とのあいだに優劣の差はなく、両者は端的に違うだけなのである。

大学のパンフレットを眺めると、比較政治学、比較社会学、比較文学などの学問分野がある。これは一つの政治・社会システムだけ、特定の時代・地域の文学だけを見つめても特徴が把握できないので、比較対象を並べて共通点と違いを発見する研究方法である。つまり学問分野においては差異を浮かび上がらせる方法として比較するのであって、優劣を決するためではない。

ところで、洋の東西を問わず古代より蛇は知恵の象徴とされてきたが、一匹の蛇(あるいは龍)が自分の尾を噛む「ウロボロス」の絵や図を目にしたことはないだろうか。これは「ちょっと待て」「他にも考え方はあるぞ」と自らを制している姿のように思われる。現代社会で求められる知性、人類の叡智とは、このように自分自身の価値判断を疑うことができる能力のことではないだろうか。

一見すると「ウロボロス」の図とは相反するように思えるが、アインシュタインが言う「自分自身から解放されている」状態とは、ウロボロスの精神によって自らを相対化できた知性のことを指すのではないか。むろん相対性理論について調べてみても理解が足りず、それゆえアインシュタインの思想もどれだけ正確に汲み取れているかは甚だ心許ないが、それは今後の課題としたい。

ここで相対化について注意したいのは、自らの立場を懐疑することはあらゆる知識を関連づけながら体系化するための第一歩に過ぎないという点だ。ただ相対化してばかりでは、いつまでも前に踏み出せず、ニヒリズムに陥るからだ。指定書籍では「悪役」として書かれているが、部分的な知識ではなく知の全体化を訴えたサルトルの姿勢からもわれわれは学ぶことができるはずだ。

ゆえに、私が学んだのは、「知の相対化」は「知の総体化」へと至る必要条件であるということだ。

(西新校授業担当)

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