大平健『豊かさの精神病理』講師解答例

リベラル読解研究

大平健『豊かさの精神病理』について

大衆が際限なく消費の欲望を喚起され、「いいモノ、ホンモノ、確かなモノ」を追い求めて止まない社会、それが筆者の述べる「現代モノ社会」です。モノを追求すれば追求するほど、当人が虚しさを覚えてしまうというパラドクスが発生しているのがこの社会の大きな特徴の一つといってよいでしょう。

モノに溢れた時代における真の「豊かさ」とは何か。この本が世に出たのは受講生が生まれる前の1990年6月です。ちょうどこの時期は、バブル景気の真っ盛りにあたります。資産価格の上昇と好景気、およびそれに付随して起こった一連の社会現象を受講生は経験していませんが、たしかにそのような時代があったのです。経済は右肩上がり、人々の消費欲が極限にまで喚起された時代といってもよいかもしれません。空前の好景気の中、昼夜を分かたずに猛烈に働く会社人間も大勢いました。栄養ドリンクのCMキャッチコピー「24時間戦えますか」は当時流行った言葉の一つです。「月9」を始めとしたトレンディドラマもまた全盛期の時代でした。高度経済成長期のように、テレビが時代を創っていったのです。就職は売り手市場、大手金融機関は花盛りでした。

やがて景気は後退し、急速な信用収縮、土地や株の高値を維持してきた投機意欲の急速な減退、および、政策の錯誤が複雑に絡み合う中でバブルは崩壊の時を迎えます。こうして安定成長期が終わった1991年以降、約20年以上にわたる日本の停滞期を「失われた20年」と総称することがあります。

本書が世に問われてから久しくなります。この失われた月日の中で、私たちは変わったのでしょうか。あるいは当時と同じ精神病理を抱えているのでしょうか。新しい時代を切り開く皆さんは、この本に書かれた症例の一つ一つに目を通し、時代状況に鑑みて自分なりに分析してみてください。次代に向けての「考えるヒント」が隠されているかもしれません。

書籍と授業での議論を踏まえて「豊かさ」について意見を出し合いました。講師解答例は次のとおりです。

講師解答例

講師解答例1

『豊かさの精神病理』が刊行された1990年と言えばバブル経済の最盛期であり、書名の通り、「豊かさ」が「精神病理」を生んでいた時代、いや、「豊かさ」という「精神病理」が蔓延していた時代であった。本書に登場する“患者”たちは、ブランド品を列挙し、美食を追求し、ペットに自己を仮託して、自分を語ろうとする。そうした〈モノ語り〉がこの時代を彩っている。

だが、〈モノ語り〉の人々は、「失われた20年」を経て勢力を衰退させた。もちろん、モノでしか自分を語れない人たちは今でも存在するが、それはバブルを引き摺った前世代の残党か、コレクターやマニアである。多くの人は〈モノで語られる私〉の空虚さに気づいたのだ。そこに登場する〈モノ〉が資本主義的な「生産―消費システム」の中にある限り、それに「かけがえのない価値」が存在しないことを知った。たとえばヴィトンのバッグとカルティエのリングで自分を価値づけようとしても、それと同じモノを所有している人は他にもいるだろう。「レアもの」だろうが「限定品」だろうが同じことである。そこに見出だせるのは、企業の利潤に貢献しているだけの、空っぽな〈私〉である。

だからといって、私たちはモノの呪縛から完全に逃れることはできないし、市場経済と無縁に生活できるわけではない。大切なのは、〈私〉を画一化し没個性化しようとする商品経済の圧力に抗して、いかに多様性を創出していけるか、ということではないだろうか。

豊かさとは多様性である。一万本の杉がつくる森よりも、一種十本ずつ百種の樹木がつくる千本の森の方が豊かだ。全員が東大に進学するクラスより、芸大や体育大や工科大に進学する生徒と就職する生徒と留学する生徒などが混在するクラスの方が豊かだ。イスラム教徒とキリスト教徒が、ハンディキャップの重い人と軽い人が、高齢者と若者が共生する社会は豊かだ。

だが、こんなことは自然が私たちに、とうの昔に教えていたことだった。豊かな自然とは多様な生物種が共生する生態系のことであり、地球は40億年以上かけてその豊かさを創り出してきた。ところが、科学技術と資本主義を味方につけた私たちの欲望は、それを破壊しようとしている。それが画一化と没個性化の圧力として私たちに迫っている。〈モノ語り〉からの脱却は、その圧力に対するささやかな抵抗の序章なのであろう。

講師解答例2

本書は第1刷発行から20年以上経った今も示唆的な内容を多く含んでいる。消費する大衆は、豊かさを追求すればするほど皮肉にも精神的な空白を抱えて生きることになる。モノを追い求めることで得られる豊かさは、本書で紹介された数々の症例から明らかであるが、本当の幸せにはつながっていない。ここで、あとがきで紹介される一つの童話を見てみよう。『ねずみとおうさま』(岩波書店)に登場する五歳の王様ブビは、ねずみの仲介により、貧しい子供パブロと出会う。そうして初めて、ブビは、城下には自分と異なって貧しい人びとがいることを知るのである。その後、筆者は貧民街を訪れたり、〈モノ語り〉の人びとと接したりする中で、モノの「豊かさ」には複雑な事情があることを知る。

豊かさについて調べていたら、インターネットで面白いCMを見つけた。「子供と乗りたい」「子供を乗せたい」をコンセプトにした日産の自動車のCMである。スイカ、鮎つかみ、生とうもろこし、それにガラス細工にまきわり。この車は本物の色を探して街を駆け抜けていく。それらの経験にはお金で買うことのできない価値がある。

私たちは物質的に豊かになればなるほどこのようなお金で買えない価値を見失いがちである。近代合理主義のもと、徹底して不快を嫌い、葛藤やドロドロしたものを遠ざけ、代わりにさらさらつるつるしたものばかり好んでいる。モノに溢れた時代を生きる私たちは、大量生産、大量消費、大量廃棄の果てしないサイクルの中で、ひたすらに地球環境と人間そのものを荒廃させてきた。まさに豊かさが生んだ病理ではないか。

何が豊かであるかということについて、私は「人それぞれ」の一言で片付けたくはないと思っている。なぜなら、モノが溢れ、人が自分自身を見失いがちな時代には、当事者意識をもってこの精神の荒廃をくい止める必要があると考えているからだ。足るを知り、持続可能な社会、そしてお金で買えない価値のある人生を目指して人びとが生きていくこと。これが私の考える本当の豊かさである。

なお、先のCMのキャッチコピーは「モノより思い出。」であった。車を売りながら「モノより思い出。」などと言うのは矛盾しているようにも思うが、理念には十分に共感できるものがある。

講師解答例3

戦後、日本は驚異的な経済発展を遂げてきた。食べるものにすら困窮していた時代から、物が溢れる時代に突入した。その一方、日本人は経済活動に特化した代償として様々なものを犠牲にしてきた。凶悪犯罪の横行、ストレス性疾患や過労死の多発、自殺者数の増加、自然環境の破壊。経済活動とは本来、人間を飢えや病苦から解放するためのものだったはずだが、現実は違う。

「豊かさとは何か」という問いに対して、私たちはしばしば「物質的豊かさ」と「精神的豊かさ」という概念を持ち出す。二つの間に対立関係を見いだし、どちらがより重要かという議論ばかりが繰り広げられてきた。しかしこれらの議論はいつまでたっても埒があかず、平行線をたどったままだ。なぜなら種類こそ違えど、その双方が人間の豊かさを形成する要素だからである。フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、種類の異なる「資本」という見方から、貨幣で確認できる「豊かさ」を経済資本、知識や教養のような有形無形の「豊かさ」を文化資本として定義づけた。個人的には、後者の文化資本の根底には人との繋がりがあるように思う。人間は他者と関わることで刺激を受け、自分自身を向上させるからだ。このように考えると、「便利さ」が豊かさであるならば、「人間的な繋がり」もまた豊かさであり、どちらが重要かなどという議論が水掛け論に終わるのは当然だろう。

何を以て「豊かさ」とするかは、人それぞれであってよいと私は思う。それぞれの道を、それぞれの足で歩んできたのならば、その人が幸せを感じる契機も異なるはずである。たしかに、本書に出てくる患者の話には読んでいて強い違和感を覚えたし、複雑な気分にもさせられた。それでも、彼らにはその人格を形成した様々な経験に基づく彼らなりの感性や価値観があるのだろうから、私に彼らを否定する権利はない。そもそも、互酬性を基調とする日本では昔から、盆暮れ正月の贈答品のように、人との繋がりを保つうえで「モノ」が重要な役割を果たしていた。だから筆者の言うとおり、モノに全ての価値を置く人びととは「実に日本的」であるとも思う。何かを体験し、何かを楽しむ。自分自身でものを考え、社会に拘束されずに生きる。そうして生きていることに充足感を得ることができるのならば、それはその人にとって本当の豊かさだと言ってよいのではないだろうか。

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