加藤周一『日本文化における時間と空間』講師解答例

リベラル読解研究

加藤周一『日本文化における時間と空間』について

リベラル読解研究では、加藤周一『日本文化における時間と空間』(岩波書店)を扱いました。第1部で時間、第2部で空間、第3部で日本文化における両者の相関を論じています。過去は水に流し、未来はそのときの風に任せ、現在に生きる日本人の傾向とはどのようなものでしょう。

日本文化を生きる者は三つの時間を生きています。始めなく終わりない歴史的時間(『古事記』)、円周上の循環である日常的時間(季節)、始めと終わりがある普遍的時間(人生)です。そしてどれもが「今」に生きることを強調します。

日本における空間の特徴は、三つあります。奥を聖なるものとして重視し、水平面を強調し(長屋、日本舞踊)、「建て増し」思想(武家屋敷、首都の地下鉄)が顕著です。伝統的ムラ共同体の境界は原則として閉じており、「ここ」を強調するものです。

総合すれば日本文化は「今=ここ」を強調しています。時間的・空間的な全体ではなく、明瞭な構造を持たない部分への興味に集中した芸術形式として随筆、俳句、音楽、能、歌舞伎、絵巻などに幅広く見られます。しかしこうしたメンタリティは大勢順応主義に結びつきやすいものでもあります。周囲に同調し付和雷同する態度は、全ての人間関係を相手との上下関係に還元しようとする心理的傾向を生んだといえます。

以上を踏まえて、日本文化の時間的または空間的な特徴について意見を出し合いました。講師解答例は次のとおりです。

講師解答例

本書において筆者は、「今=ここ」に生きることこそが日本文化の特徴であると論じている。第三講参考資料「日本社会・文化の基本的特徴」では、「絵巻物」の例が登場する。「今=ここ」に生きる日本人は、時間空間についてその全体を一緒に見ることはしない。絵巻物をひろげている現在だけが問題だということになる。

時間空間について「抽象的包括的な形而上学の体系」を生み出さない日本文化の特徴がよく現れている例として、ふすまや障子が挙げられる。これらは付け外しが容易であり、生活の必要に応じて空間を伸び縮みさせることができる。境界は可変的である。この点については、原広司『空間〈機能から様相へ〉』で述べられる霞と花(桜)も同様である。

境界が曖昧で不定形であることは、日本人の特徴そのものである。状況に応じて日本人はいか様にも自分を変えることができる。他の文化であれば解決困難な問題にも解決の糸口を示していくことが可能なのである。例えば、先の論文で取り上げられている宗教戦争は、日本では起きにくい。なぜなら、日本には超越的価値が存在せず、多種多様な宗教が認められているからである。ある特定の超越的価値がひとつの文化に存在しないということは、けして忌むべきことではない。むしろ多様な価値を認める存在として、世界で起きている宗教戦争の仲裁に日本が積極的に関わってもよいのである。こうして積極的に名乗り出ていくことで、日本は国際貢献していけるのではないだろうか。「雑種」だからこそなせるわざである。

始めがなく終わりがないものとして、川端康成の文学があると私は考えた。一九六八年(昭和四三年)にノーベル文学賞を受賞した川端はストックホルムで「美しい日本の私」と題した記念講演を行っている。その主題はまさに「始めがなく終わりがない」という日本文化の特徴である。梶井基次郎『檸檬』に出てくるレモンと同様、個別具体的な一回性の経験がここにある。初期の作品『伊豆の踊子』に登場する女性は、この後に大島へ行くと青年に告げるが、大島の先を青年は知らない。旧制一高の学生と踊子の淡い恋物語は出会いのときから「つづら折り」である。境界はあるようで、ない。恋の始まりはいつだったか、そして終わりはいつか、いやもう終わってしまったのか、青年自身にもわからない。雨脚が近づき峠道を急いだ記憶も、船上での涙も、一切は過ぎていく。

過去は水に流した方が都合よく、明日は明日の風が吹くと楽観すれば、なるほど、ひとは悲しみの只中にあっても生きていける。以上の考察から、日本文化の柔軟性について私は好意的なものとして受け止めた。私たちは所詮、絵巻物の「部分」でしかない。ただこの時この場所で、歴史の一場面をつくっていくに過ぎない存在である。巻かれて閉じられて、いずれ消えてしまう存在であるとしても、私たちは「全体」を構成していくある一場面の主体には他ならない。

(東大館授業担当)

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