リベラル読解論述研究
講師解答例(2013年版)
大野晋『日本語練習帳』
大野晋『日本語練習帳』について
リベラル読解論述研究では、大野晋『日本語練習帳』(岩波書店)を扱いました。今回は言語について考えます。日本人はしばしば明言を避けて、霞がかかったように曖昧さの残る言い方をすることがあります。筆者はこれを「霞主義」(本書59ページ)と呼んでいます。
言語は制度のように人間に外在するものではありませんが、かといって主体性だけで自由にできるものでもありません。言語は社会的な規範に従うことで主体的に気持ちを相手に表現することができ、受け手も規範に従うことで理解することが可能になります。ですから、持って回ったような曖昧な言葉遣いではなく、単語の一つ一つにまでこだわった明晰な日本語を、正しい文法に基づいて使用すべきだ、というのが筆者の考えです。
以上を踏まえて、「言語とは何か」について意見を出し合いました。
講師解答例
言語とは何か。私にとってそれは、次のような比喩的なイメージで捉えられるものである。
たとえば、言語とは「法」のようなものである。人間は社会の秩序を維持するために法をつくり出したが、言語も、世界に秩序をもたらすために人間がつくり出したものである。だが、法が人間の自由を制限するように、言語も人間を縛りつける。敬語が上下や親疎の秩序を維持すると同時に本音の発露を抑制する機能をもつように、私たちは言語をもつからこそ、世界を秩序だったものとして認識できる反面、言語の構造や概念によって思考や行動を規制されているとも言えるのである。
たとえば、言語の世界とは「生態系」のようなものである。地球上に多種多様の生物が生まれ、生息しているように、世界には多種多様な言語が存在する。それはある一つの言語から分化した結果かもしれないし、各地で発生した多発的現象の結果かもしれない。いずれにせよ、種の多様さが生態系の豊かさであるのと同様、言語の多様さは思考の多様さを生み、世界を豊かにする。もちろん、多様な言語の存在は、「壁」となって意思疎通を阻みもするのだが、英語にはない発想が日本語から生まれたり、各地のローカル文化を現地の方言が伝承したりするという恩恵がもたらされるのも多様さゆえである。
たとえば、言語とは「橋」のようなものである。「私」と「あなた」の間に横たわる、どうしよもない断絶をなんとか乗り越えようとして「私」は言葉を発する。それは広く深い河に渡された橋だ。ただし、その橋がうまく架かるとは限らない。河があまりにも広く深ければ、その作業は困難を極めよう。「あなた」の協力がないときも同じだ。何といっても、「私」にその技術がなければならない。母語に精通し、豊富な語彙とレトリックをもっていなければならない。高い技術によって架けられた堅固な橋は、「私」と「あなた」をつないでくれる。
こうしたイメージの総体が私の言語観だが、私は同時に、この言語観が維持できなくなるのではないかという危惧も抱いている。その理由は、英語のグローバル化と情報化である。国際語としての英語が普及し情報化が進展すれば、一見、コミュニケーションが円滑になり、人間は自由を手にするように思える。しかし、それが意味するのはむしろ、多様さの衰退、橋を架ける努力の喪失であり、貧しい世界の招来ではないだろうか。