リベラル読解論述研究
生徒優秀答案・講師解答例
村上春樹『沈黙』
村上春樹『沈黙』について
リベラル読解論述研究では、村上春樹『沈黙』(全国学校図書館協議会)を扱いました。
この小説では大沢さんが「僕」に語るという構成がとられています。文中に出てくる「深み」、タイトルである「沈黙」がこの小説を読む上でのキーワードです。それぞれの意味するところは何でしょうか。
また、空港の描写なども上手に書かれています。そうした細かい表現にも着目することで、より深く読解することができます。
小説の読解ポイント・基本
- 誰がWho・どこでWhere・いつWhen・何をWhat・なぜWhy・どのようにHow・どうしたか(どう思ったか)を把握する。
- 登場人物の数、各人の性・年齢・身分・職業・性格、人物相互の関係、主人公は誰かなどを把握する。人物名はしばしば代名詞で呼ばれているので、それぞれの人称代名詞がどの人名と結びつくかを明らかにする。
- 場面の転換、人物の出入り、事件の推移によって文章を区切り、事件の推移に伴う主要人物の心理の推移を捉える。
- 会話と、人物が心中に思っている事柄の叙述とを判別しながら読む。
- 自然描写は登場人物の心情の象徴として描かれていることがあるので、情景の描写と人物の心理との関連に注意を払う。
- 表現・文体の特色を捉えることに努める。
今回はモーパッサン『首飾り』をテキスト末尾に掲載しました。『沈黙』・『首飾り』、これら二つの物語は、ともに一つの出来事が登場人物の一生に影響したことを描いています。そして、その解釈自体は様々に可能です。
第4講での小論文課題は「あなたにとって印象深かった作品を選び、物語を通して考えたことを述べよ。」というものでした。生徒優秀答案・講師解答例は次のとおりです。
選んだ作品村上春樹『沈黙』
生徒優秀答案
『沈黙』の作品を一読した時は大沢さんが青木という人間に出会ったがために辛い一ヶ月をすごし、とてもかわいそうだと思ってしまいました。ですが授業で読んでいくうちに、はたして青木は絶対的な悪で、対する大沢さんは欠点のないただの被害者なのか考えるようになりました。
最初に読んだ時、私は主人公である大沢さんの気持ちになり読み進めてみました。そこから私は大沢さん視点という一つの見方しかできていなかったのです。私は今まで大抵の本は一度しか読んでこなかったので主人公の心情はよく理解できていても主人公以外のキャラクターのことはあまり理解できていなかったのだと思います。一度大沢さんを否定し、青木目線で文を改めて見てみると、青木と大沢さんの不仲の最初の原因は大沢さんが青木を生理的に受け入れなかったところでした。ほとんど話したこともないのに、相手が本当はどういう人間なのかを主観的な判断で決めてしまうのは視野が狭く、大人的ではないと思いました。青木でなくても自分のことを良く思っていない人を良く思うはずがありません。だからといって青木のしたことは度の過ぎたことでありしていいことではないと思います。二人ともお互いの悪いところしか見れていない子どもだったと思います。
私はこの本を読み、第一印象で物事や人をすぐ判断せず、はたして自分が思ったことは本当に正しいのか、逆の立場になりもう一度考え、一度相手を理解してから多くの情報を交えつつ、より良い判断ができるようになろうと思いました。
【講評】一読目と二読目で受ける印象が異なることがあります。この生徒さんは再読することで違う読み方ができています。今回の答案のまとめ方は講師解答例(例2)のまとめ方に近いですね。自己批判が大切であることについてうまく書けています。
講師解答例1
『沈黙』は、「人間の可塑性」という、教育現場で信じられている概念に疑いを抱かせるような小説である。
主人公の「大沢さん」は物静かで誠実な印象の人物だが、一度だけ人を殴ったことがあると言う。物語はその出来事、すなわち、中学二年生の大沢さんが同級生の青木を殴った事件と、その五年後に起きた、青木による陰湿な報復の顛末を大沢さんが「僕」に語るという構成をとっている。もともと村上春樹作品の「僕」は無個性で受動的な人物であることが多いが、この作品の「僕」は完全に聞き手となっており、後半はほぼ大沢さんの語りだけで展開していく。その構成によって私たち読者はいつしか「僕」と同化して、大沢さんの語りに引き込まれていく、なんとも巧妙な仕掛けなのである。
物語の中核をなすのは、プライドが高く、五年間も報復の機会を窺うという執念深さをもつ青木と、その被害者となった大沢さんの対比であろう。当初私は、両者が人間の悪意と誠実さを象徴しているのではないかと考え、誠実さは悪意の前では無力だというテーマを読み取ろうとした。だが、読み進めるうち、両者はそうした対照をなしているのではなく、むしろ、共通の性質をもつ人物、喩えるなら、同じ親から生まれた兄弟のような二人なのではないかと感じ始めたのである。
大沢さんは「青木と僕はあらゆる意味で対照的」だと言っているが、内部に暴力性を宿している点は青木に通じるし、同年代の人間たちと自分は違うと感じるプライドの高さももっている。報復を諦めない青木の執念と、その報復を孤独の中で受け止める大沢さんの強さは通じるものがあり、人を思い通りに支配する青木の能力と、それを見抜く大沢さんの能力はどちらも高い。考えてみれば、二人には奇妙な相互理解が成立していたのだ。ここで重要なのは、こうした二人の性質は教育や環境によって形成されたものではない、という点である。
人間の性質は生得的なものによって形成されている。もちろん、人間は環境によって変化する可塑性をもっているだろう。だが、それを粘土の性質に擬えるなら、粘土という材質そのものは不変なのである。つまり、私達人間は、教育や環境によって変えることのできない本性をもって生まれてくるということだ。『沈黙』を読んでいる間中、生得的本性から逃れることはできないのだという声が、ずっと私の心の中で響いていた。
だからといって、私は教育や環境整備が無意味だと言いたいのではない。それは自己の本性を理解し、それとうまく付きあっていく術を与えるだろう。教育や環境や意志の力が人間をどのようにでも変えうるなどという幻想はもつべきではないが、悪しき本性の暴走を食い止め、社会性や協調性を育てていくことは可能だ。もちろん、幸福になることも。遺伝子はデフォルトでしかないのだし、運命に<沈黙>する必要などないのだから。
講師解答例2
この物語は、何層も深く読み込んでいくことができると思った。私がまず一読した後に感じたのは、青木に対する嫌悪感と、級友や教師の「沈黙」の恐ろしさだった。青木は大沢さんにテストで負けたことをひがみ、カンニングがあったと噂を広めた上、その結果自分が殴られた腹いせに、大沢さんを暴力事件の犯人として陥れる。このような人間が級友や教師から評価されるのは不愉快だと私は感じた。また、クラスメイトが大沢さんを無視し、大沢さんが独りで耐えていくくだりは読んでいてとてもつらかった。大沢さんは彼らのことを「何も理解していないくせに、口当りの良い、受入れやすい他人の意見に踊らされて集団で行動する」者たちとして、真に恐怖する。最近いじめが社会問題化しているが、見て見ぬふりをした第三者たちもいじめに参加したのと同じことだとよく言われる。大沢さんの考えるとおり本当に批判すべきは、このような第三者の集団なのだろう。私はそう思った。
二読目以降は、ただストーリーを追うだけではなく、一文一文の意味をかみしめながら読んでみた。すると一読目とは異なる面が見えてくるのだった。大沢さんは青木のことを「一目見たときから嫌で嫌でしかたなかった」「この男は害虫のような人間なのです」と手ひどく評する。大沢さんは青木のことを、理屈なしに、つまり確たる根拠もなく、しかし極端に嫌う。だが青木は周囲の人間からは「公正で謙虚で親切な人間」と思われているのだ。大沢さんが青木へ持つ感情は、果たして適切なのだろうか。むしろ大沢さんの方に問題があるのではないか?
よく考えてみると、青木が大沢さんを陥れる目的で教師に巧妙なつげぐちをしたというのは、すべて大沢さんの想像なのだ。
もしも私が大沢さんの意見に完全に同調して青木を軽蔑し、恨み憐れんだとしたら、それは大沢さんの恐怖するところの「受入れやすい他人の意見に踊らされる人間」と同じことをしていることになる。私は一読目で大沢さんの意見を鵜呑みにしてしまった。深く考えることをせずに、深く考えるということをしないクラスメイト達を批判的に見た。私がこの物語を通して学んだものは、人を批判したとき、果たして自分はどうなのかと深く自省する姿勢だ。
選んだ作品モーパッサン『首飾り』
生徒優秀答案
私はモーパッサンの『首飾り』という作品にとても強く心を打たれました。ロイゼル夫人は、女性の生来の美貌はやがて地位や財産につながるものであると考えていて、小役人の妻として贅沢とは無縁の生活を送る現在の境遇は自分の美貌に対して不相応であると感じており、そのうえ自らの容姿の美しさから自分は本当は贅沢で華やかな生活を送るにふさわしい人物だと不満を抱いている人物でした。このことからは、より幸せな生活を願うこと自体は良いですが、生活が変わる見込みのない中で現在の暮らしについて嘆くばかりであるのは損だと思いました。
また妻の落として失くした首飾りを自らあちこち探し回ったロイゼル氏については、妻を見捨てずに一緒に借金を消却するべく一生懸命働いたことに感心しました。また、肝心の妻自身の気持ちについて理解ができていないところや、首飾りを紛失した際にはなんとか嘘をついてごまかそうとするなど、少し子供っぽい人物だと感じました。そして、首飾りの紛失によってつらい労働を強いられることになり、頼みであった自らの美貌もすっかり失ってしまいロイゼル夫人の人生は破滅しましたが、若い頃は友人の顔さえ見るのが苦痛であった彼女が十年の労働を経てフォレスチャ夫人に話しかけ、首飾りの紛失を素直に伝えている姿には、人間的な深みが感じられました。そして財産こそ失ったもののそれに勝る程の人間的成長を感じました。首飾りの紛失によって、彼女の首をしめつけていた、極端な判断や独断は地に落ち、まだ転がり続けるかと思いましたが、その転がっている玉をロイゼル氏が拾い、うれしいことも悲しいことも、二人で喜び悲しみを分かち合い共に生きてほしいと思いました。この一瞬の破滅は一生の再生につながる深みのある話なのだと思いました。
【講評】村上春樹『沈黙』で出てきた「深み」を、ロイゼル夫人の話にあてはめて考えられています。「首をしめつけていた、極端な判断や独断が地に落ち、まだ転がり続けるか」や「一瞬の破滅は一生の再生につながる」など、細かい所の書き方も練られています。
講師解答例
首飾りを失くして多額の借金を負ったことによりロイゼル夫人の生活は大きく変わってしまい、美しかった彼女も当時の面影はまるでなく面やつれのした世話女房へと変貌してしまった。この物語は、一見すると、不幸で気の毒な話のように見える。
しかし、本当にロイゼル夫人は首飾りを失くしてしまったことによって不幸になったのかというと、私はそうではないと考える。夜会に行く前のロイゼル夫人は、栄華をきわめた暮らしを自分に本来見合うものと考えて空想し、実際の自分の暮らしぶりと比較して毎日嘆き暮らしていた。彼女と同じ境遇の女性たちが気にも留めなかったようなことをずっと思い煩って、ロイゼル夫人は自分自身を苦しめていたのである。それと比較して、借金を返済し終わったあとのロイゼル夫人は、自分の身なりにも無頓着になり、長屋の人々と大声で話をするようになって、変に気取った様子を見せることはなくなった。たまに夜会のときのことを思い出してみたりはするものの、そこに悲観的な意味あいはなさそうである。その証拠に、昔は顔を見るのも苦痛であったフオレスチャ夫人を偶然見つけた際も自分から話しかけに行っている。借金を返済し終えた後のロイゼル夫人は、自らの生活を嘆くことなく、自分の身の丈にあった暮らしとして受け入れられるようになったのである。確かに物質的には更に貧しくなったものの、借金を背負ったあとのロイゼル夫人の方が何の憂いもなく幸せに暮らしているように見える。
このようなことは私たちの日常にも言える。豊かで華やかな生活は誰もが望むものであるし、それを手に入れようと努力をすることはよい。しかし豊かで華やかな生活を望むあまり自分の現状を必要以上に嘆くのは損な考え方ではないだろうか。幸せは客観的に決まるものではなく、自分の気の持ちように依るところが大きいと私は考える。他人から羨ましがられるような生活をしているからといって必ずしも本人が満足しているとは限らないし、その逆もまた然りである。ならば、自分の今の日常を幸せだと思って過ごせたほうがよいはずである。日常の些細な物事の捉え方によって幸せというものは大きく変わるということを、この物語は再認識させてくれる。