大野晋『日本語練習帳』講師解答例

リベラル読解研究

大野晋『日本語練習帳』について

リベラル読解研究では『日本語練習帳』(岩波書店)を扱いました。今回は言語について考えます。日本人はしばしば明言を避けて、霞がかかったように曖昧さの残る言い方をすることがあります。筆者はこれを「霞主義」(本書59ページ)と呼んでいます。

言語は制度のように人間に外在するものではありませんが、かといって主体性だけで自由にできるものでもありません。言語は社会的な規範に従うことで主体的に気持ちを相手に表現することができ、受け手も規範に従うことで理解することが可能になります。ですから、持って回ったような曖昧な言葉遣いではなく、単語の一つ一つにまでこだわった明晰な日本語を正しい文法に基づいて使用すべきだ、というのが筆者の考えです。

以上を踏まえて、「言語とは何か」について意見を出し合いました。

課題
「言語とはいったい何なのだろう」(本書205ページ)とある。この問いに対するあなたの考えを提示し、それについて600〜1000字で自由に論を展開せよ。その際、『日本語練習帳』で述べられた文章の書き方に従うこと。

講師解答例

講師解答例 ①

私は言語の本質は、情報伝達の手段として、人類を進化・発展させることだと考える。人間と他の動物との大きな違いの一つに言語の使用がある。もちろん他の動物も音声によってコミュニケーションを行っていることは認められている。しかし人間ほど、多種多様な語彙を操る動物は他にいない。

さらに人類の歴史を振り返ってみると、人類がこのような発展を遂げたのは、言語による情報の蓄積と共有とによると言える。言語が与える情報によって、経験してもいない知識を学び、様々な成果を生むことができた。近年「ヒッグス粒子」の発見が話題になったことがあるが、何の先行知識もなしに、このような発見をすることは不可能だっただろう。人は言語を情報伝達の手段とすることで、発展を遂げてきたのである。

一方現代では、言語以外の情報媒体が増えてきた。テレビや漫画など、言語以外の部分で大きな情報を伝えてくるメディアだ。これは一面では、言語に限定されない情報伝達が可能になったとか、言語より具体性のある情報の伝達が可能になったとも言える。しかし、そのようなメディアの普及によって、言語能力の低下が心配されている。

象形文字などを見れば明らかなように、そもそも言語とは、絵では膨大になりすぎる情報を圧縮し、端的に伝達するために絵から進化したツールである。つまり、言語を離れて絵の認識に依存することは、退化に他ならないとも言える。言語能力の低下は人間としての本質を失い、動物化することにつながるのだ。

現代は様々なメディアが登場し、言語の必要性が薄れてきたように感じがちだ。このような時代だからこそ、言語の情報伝達能力と人類の発展の関係を再確認し、人間の言語能力を保持していくべきである。

(東大館授業担当)

講師解答例 ②

言語とは、世界を部分に区切っていって、私たちが世界を理解することを可能にするものだ。

このわかりやすい例として虹の色の話がある。虹の色の数が国や文化によって異なるという話は有名だ。虹は、空気中の水滴に光が反射、屈折することで、様々な色を私たちに見せるものであり、本来その色の数は無限にある。しかし、例えば日本では虹は七色だと言うし、アメリカでは六色、ドイツでは五色、明暗の二色に分ける民族も多いそうだ。これは私たちが無限の色を勝手にいくつかに分断し、その一つ一つに名前をつけて理解しているということだ。この辺からこの辺の色は赤、この辺からはオレンジと呼ぼう、と恣意的に決めているのだ。そしてその分断のし方は、それぞれの文化的背景によって異なる。

色だけに限らず、私達はものごとを認識するときはいつも、言語を当てはめて世界を分節化している。たとえば「美しい」という言葉があるから「美しい」という見方があり、「美しい」モノが存在する。最近アメリカから輸入されたカタカナのIT用語が氾濫しており、これを難しいという人が多い。これはそのカタカナがどう訳されるかがわからないから難しいのではなく、その指す概念を知らないから難しいのだと思う。「ソフトウェア」という概念がわからないから、「ソフトウェア」の指すモノが何なのかが理解できないのだ。

このように一つ一つの「言語=概念」は文化ごとに成立しているのだが、厄介なことに、そこに暮らす人々にはそれが常識として刷り込まれる。いわば文化ごとに「勝手に決めた」だけの概念を当然だと見なし、それを元に日々思考してしまう。言語を用いて認識することは、自身の言語、文化のもつ視点から世界を見ているということだ。つまり、言語を用いて思考する限り、私達は自文化中心主義者なのである。

文化的な差異によって国際紛争が起こっていることは周知のとおりだ。もちろん、これには様々な政治レベルでの思惑が絡んでいるが、根本に言語の違いがあることも否定できない。文化によって「善」「悪」という言葉の意味が違う可能性もある。私たちは、言語が認識を構成し、また認識を阻害しているという事実から、目を背けてはならない。グローバル化が進行し、地球レベルでの他者理解が求められる今日において、このような言語の本質をきちんと意識するべきである。

(東大館授業担当)

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