リベラル読解論述研究
講師解答例

岩井克人『貨幣論』

岩井克人『貨幣論』について

リベラル読解論述研究では、『貨幣論』(筑摩書房)を扱いました。貨幣について、著者の主張を要約すると次のようになります。

商品は貨幣との直接的交換可能性がなければモノであり、貨幣こそ商品世界の主体である。貨幣が商品世界の存立を維持し、商品世界の存立構造が貨幣を必然化する。この循環論法に労働・欲望・申し合わせ・契約は不要で、金属片・紙切れ・電磁気パルスで構わない貨幣は存在や生成の根拠が必要ない「奇跡」だ。人が紙切れを商品と交換するのは、いつか他の人が同様にする期待があるからだ。この期待が連鎖する限り、貨幣を媒介に商品世界が維持される。

恐慌論者は商品を貨幣に交換する「売る」困難を懸念したが、恐慌が激しく不況が長くとも人々は貨幣共同体の永久的存続を信じている。対してハイパー・インフレーションでは貨幣を商品に交換する「買う」困難が生じる。商品を売らずに持ち続ける「異邦人」が期待を裏切り、貨幣価値への信頼を全面的に揺るがし、商品世界は崩壊する。よって人々が貨幣に興味を示さなくなることこそ、資本主義社会の真の危機だ。

第3講では同著者が朝日新聞に寄せた「『瓶の妖鬼』をよむ」を、第4講では今村仁司『貨幣とは何だろうか』を参考資料として扱いました。

書籍を読解し、論点を抽出した後、意見を出し合いました。授業の最終講で扱った課題と講師解答例は次の通りです。

台本とわかりやすさ、ドキュメンタリーとフィクションの関係。3・11とメディア。「観察映画」とは何か。さらにはドキュメンタリーの面白さ、そして「映画が連れていってくれる場所」とは? 著者は「作り手がピッチャーなら、観客はキャッチャーではなく、バッターだと思っている」(226ページ)と述べています。これらについて討論し、意見を出し合いました。

課題

指定書籍と議論を踏まえ、貨幣という用語・概念を用いて、あなたの考えを自由に論じなさい(1200字以内)。

講師解答例1

自分は貨幣について授業で議論した後も考え続け、大学生の姉とも議論してみた(偶然にも姉は大学のレポート提出のため既に指定書籍を読んだことがあったのだ)。姉と議論を交わすうちに、テーマは貨幣と信頼の結びつきに収束していった。

まず貨幣について具体的に考えるために(高校生の自分が将来どんな職業に就くかはまだ分からないが)社会人として日本の企業で働いていると仮定してみよう。すると当然のことながら自分は、生産者としては労働力・時間を売って貨幣で支払われ、消費者としては貨幣で支払って商品・サービスを買うことになる。ここで注意したいのは、貨幣を用いることは貨幣が無限の未来まで手渡され続けることを暗黙の前提として予期していることになるという点だ。つまり、貨幣を使うことは資本主義社会の永続を信頼することにつながるのだ。

この点は自分から貨幣を受け取った人も同様で、以下、繰り返しである。逆に言えばこの予期の連鎖が崩壊するとき、われわれの社会も貨幣共同体としての一体性を失う。ハイパー・インフレーションでは商品を売らずに持ち続ける「異邦人」が連鎖を切断し、貨幣価値への信頼を全面的に揺るがすことで、商品世界は崩壊すると著者は述べる。貨幣への不信が募り、相手が受け取ってくれるとは限らないと予期する人々が増え始めれば、誰も現実に貨幣を受け取らなくなるからだ。

次に信頼については、二十世紀初頭のドイツで活躍したユダヤ系の哲学者・社会学者ゲオルク・ジンメルの存在を姉が教えてくれた。彼によれば、信頼は「全知」と「無知」のあいだにあるという。つまり、知らないことはないほど相手のことを知っていればそもそも関係を持つ必要はなく、相手のことを少しも知ることができないのであれば関係を持ちようがない(『社会学』)。さらに、昔マルタ島で使われていたコイン(銅貨)には「銅ではなくて信頼」の文言が書かれており、貨幣が信頼を媒介することを示唆するという(『貨幣の哲学』)。

最後に、貨幣と信頼と社会の関係についてまとめよう。一方で、消費者は商品・サービスを買うことで社会を信頼する。他方で、生産者は労働力・時間を売ることで会社から、ひいては社会から信頼される。いずれの場合も、貨幣を媒介にして信頼が発生しているのは間違いない。さらに、両者をつなぐ貨幣そのものを信頼することはこの相互信頼の連鎖を強化する(仮に貨幣を嫌っていたとしても、資本主義社会における他の人が貨幣を使い続ける限り、自分も使い続けざるを得ない)。

なるほど、貨幣とは疑って不信すべき「紙」などではなく、信頼すべき「神」なのである。

講師解答例2

本書の議論から新たな思考を展開させるには、近年登場した「ビットコイン」のような新しい形での「エレクトロニック・マネー」について検討することが必要ではないだろうか。

筆者の貨幣観は、商品的な価値を持っていないはずの物体が、すべての商品と交換可能であるという想像力を共有することによって、社会の中で貨幣としての価値を持つというものだ。たとえばただの紙に対して、社会の成員が商品と交換可能と認めれば、その社会の中でそれは紙幣となる。

この考え方は、日本人が文字、特に漢字に対して持っている想像力を連想させる。音と意味とを併せ持つ表語文字である漢字は、一文字一文字が単なる線で構成された図形であるにも関わらず、「この文字はこういう音でこういう意味を持つ」という認識を共有することによって、他の文字との差異が生まれ、ひとつひとつが独特な音と意味を持つこととなる。こうしてルールを共有しながら人間同士のあいだで流通することによって、人間同士の交流は広がっていく。貨幣が想像力によって価値をもつことになり、その貨幣の価値を共有できる範囲内で流通することによって、経済活動が発展することと構図としては同じといえるだろう。

この考え方を現代のネット社会に適用してみよう。最近、「w」というインターネット上の言語表現がある。アルファベットそのものが意味を持っていないのは自明だが、最近の日本のインターネット文化においてこの文字は「笑い」と「笑い声」を意味する表語文字として使われる。「www」などと書くと、大いに笑う様子を表す一方で、笑い声の音そのものが大きいことの表現にもなっているようである。極端な見方をすれば、アルファベットを漢字のように使う想像力が、インターネット上で共有されているといえるのではないか。

他方で、笑いを表す「w」は実生活ではなかなか見かけられない。これはインターネット上の感覚を実社会に持ち込んではいけないという暗黙の了解が存在することを意味する。これはたとえば、ネット上のヴァーチャルな貨幣(ゲームの通貨等)を使用する際の価値観と、実際の硬貨や紙幣を使用する際の感覚の差異と相同関係にある。むしろ、ネット上の価値観を、実社会に持ち込む際の余所余所しさ、抵抗感というものが、通貨であれば増幅される可能性すら存在する。画面上の「円」ではない未知の通貨を、安易に信用できるはずはないのである。

したがって、新しい形の「エレクトロニック・マネー」が実体を持つ通貨と同等に扱われることは結局のところ困難なのではないだろうか、と推定される。社会の成員が認めれば、その社会の中でそれは貨幣となる。こう言ったとき、「エレクトロニック・マネー」は無限の可能性があるように思われるが、むしろ逆に、実体としての貨幣の価値を相対的に高めることになりうるのである。

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