池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』講師解答例

リベラル読解研究

池谷裕二『単純な脳、複雑な「私」』について

リベラル読解研究では『単純な脳、複雑な「私」』(講談社)を扱いました。今回は脳科学の最前線を追いました。

この本は著者である池谷氏が母校の高校生に向けて連続講義したものをまとめたものです。脳は相関が強いと勝手に因果関係があると解釈してしまうということや、「動かそう」と意図したときには脳はもう準備を始めているということなど、興味深い内容が盛りだくさんです。「サブリミナル効果」や「リカージョンの罠」など難しい言葉も出てきますが、日常生活に照らして考えるとあっと驚くような新発見がこの本に詰まっています。

書籍を読解し、論点を抽出した後、意見を出し合いました。授業の最終講で扱った課題と講師解答例は次の通りです。

課題
本書で学んだことの中であなたが興味を持った内容について、筆者の意見を簡潔にまとめた上で、600〜1000字で自由に考察せよ。

講師解答例

講師解答例1

本書で最大の論点は、第三章以降で展開されている「自由はあるのか」というテーマであろう。脳科学の研究者である著者は「自由は感じるものであり、本当の意味で自由である必要はない」と述べている。

例えば、好きなときに手首を動かす実験では実際の順序が ①準備 → ②動かそう → ③動いた → ④指令であることが判明した。つまり「動かそう」と意志が発生するよりも前に脳が準備していることになる。裏を返せば、勝手に本人の意志と無関係に体が動くのだから犯罪を起こしても罪には問えないとも言えそうだが、さすがにそうはならない。なぜなら私たちには、準備できた行動を起こすのをやめる自由、つまり自由否定を選択する余地も残されているのだから。

さらに、他者に制御されていることに気づかない場合であっても、行動結果を見て思い通りであれば遡及的に脳は自由意志を感じる、と著者は述べる。言い換えれば、脳にとっては自由の存在ではなく知覚あるいは感覚こそが重要ということだ。「自由は感じるもの」と著者の主張するゆえんだ。

ところで、評論家の斎藤孝は「価値観」を「価値感」と書く若者が増えたことを指摘しながら「自分の主観的な価値判断にのみとらわれて、客観的な分析(把握)ができないというのは、やはりまずい」と述べている。斎藤によれば「主観優先で別にいいじゃん」という人の増加に社会全体が非常に手を焼いているが、そうした態度は勉強から逃避した人に起こりやすく、なぜなら勉強は客観性や多角的視点を重んじるからだという。

これと関連して、重要なのは「自由」ではなく「自由」であると言えないだろうか。つまり価値について論じるのと同様、自由について論じるためにはフィーリングや感覚だけでは不十分であり、言葉を費やして議論の俎上に載せ、分析し、総合し、把握する必要性があるように思われる。

その点で、自由について論じてきた歴史がある人文・社会科学の蓄積は、脳科学にとっても決して無益ではない。つまり両者は敵対するのではなく、むしろ協力し合って発展する必要性があろう。

脳科学を始めとする科学技術がどれほど発達したといっても、脳や人間について明らかになったことは氷山の一角にすぎず、水面下に潜んでいるその不思議さを解明したと言える人などほとんどいないのだ。脳、人間、自由についての探究はまだ始まったばかりだ。

(新水前寺校授業担当)

講師解答例2

この本で一番印象に残ったのは、「僕らは本当に自由なんだろうか」という「自由」についての議論、そして筆者が示す「『心』を考える心構え」だ。

普段私達は、自分は自由な意志で行動している、身体を動かすのも何かを考えるのも自分の好きに行っている、そう考えている。しかし筆者は、脳を調べることでこれを否定する事実が明らかになったという。私達が「手を動かそう」という意図を生むより前に、なんと脳は手を動かす「準備」を始めているのだそうだ。まず脳の運動準備野が活動し、その活動を受けて「動かしたくなる」という意図が発生するのだという。たとえば反射的に誰かに悪意を抱いてしまうのは、脳のゆらぎによって生まれた「準備」から自動発生してきたアイデアであり、その過程に本人の自由はない。一方その悪意を抑えるという衝動の否定に、はじめて私達の自由が存在するのだという。

ここで私は少し違和感を覚えた。筆者が「自由」を、「自覚的な意志」に限定しているという点だ。手を動かしたくなるのは脳によって自動発生した衝動でありそこに自由はない。自動発生した悪意を自覚的に押し込めるなら、それこそが自由だという。しかし果たして「自覚的な意志」と「反射的な衝動」に、明確に線が引けるだろうか。

こう考えていくと、そもそも「自由」とは何かという話になり、「僕らは自由なのか」というテーマを考えるための前提に立ち戻り、堂々巡りに陥ってしまう。恐らく筆者はそのような堂々巡りに陥らないように、まず一定の前提を定め、それについては掘り下げないようにして議論している。

このことは、筆者が書籍の最後で言及する「リカージョンの罠」に関わる。言語を介して心で心を考察すると、必ず入れ子構造(=リカージョン)に陥り、考え続けることができなくなるというものだ。筆者は「『心』を考える心構え」として、リカージョンにはまらないようにしなければいけないという。「心とは何か」という議論がこれまでいつも机上の空論に思えたのは、このリカージョンにはまってしまっていたり、もしくはリカージョンがあるという事実に目を向けずに議論されていたことが原因のように思われる。心を考えるときに限らず何を研究するにしても、考える姿勢をまず定め、その姿勢を自分で常に自覚しつつその内側で考えていくこと、この方法論を大事にするべきであると私は学んだ。

(東大館授業担当)

講師解答例3

人間は、成長とともに身体の大きさが変化する。そうして身体の様々な部分から脳までの物理的な距離が変化しても違和感なく生活できるのは、脳に可塑性が備わっているからである。そう筆者は言う。可塑性とは「どれだけ変化しうるか」というポテンシャルを表す言葉でもあり、可塑性を発揮することにより遺伝状態から乖離することが可能になるそうだ。まさに人間の可能性そのもの、といったところだろうか。この事実は、世の中の全ての人々にとって大きな励みになるように思う。人間の能力には生まれながらにして個人差があるということは周知の事実だが、それは可塑性で克服できるものであり、可塑性が高ければ、遺伝的に恵まれていなくとも集団のトップにだってなることができる。つまり受験勉強に置き換えるなら、成績が伸び悩んでいるからと言って、「あの人は生まれつき頭が良い」「自分は元々頭が悪いから無理だ」などと勝手に限界を決めて他人を羨むだけの人もいるが、それは筋違いであり、伸びしろや可能性は無限に秘められているということだ。「努力に勝る天才なし」とはよく言ったものだ。

こうして可塑性を駆使することによって周囲の環境に順応することができたものだけが淘汰に打ち勝って生き残っていくというが、ここでもう一つの論が展開される。筆者は、可塑性による淘汰が進み、可塑性が同程度に高いものばかりで集団が構成されるようになると、今度は優れた遺伝子を持つものが有利になり、それが淘汰の指標になることで、集団が遺伝的に均一になってしまうと言うのだ。多様性が重要である進化の過程において、それは種の存続の危機を意味する。だからこそ世の中では多様性が重視される。先生、スポーツ選手、エンジニア、作家、歌手など様々な職業が溢れていて、人が社会人として働く意味もここにある。そして私たちは、その摂理を無意識のうちに理解しているのだろう。脳は本当に、人間という種の存続と進化において重要な役割を果たしているのである。

(東大館授業担当)

お問い合わせ: 0120-3759-37 (日曜・祝日を除く14:00〜18:00) Webフォームで問い合わせる