リベラル読解論述研究
講師解答例(2013年度)
遠藤周作『海と毒薬』
遠藤周作『海と毒薬』について
リベラル読解論述研究では、遠藤周作『海と毒薬』(新潮社)を扱いました。単なる登場人物の心情読解にとどまらず、作者がその表現に込めた意図、物語を通じて読者へと投げかけている深い思想を読みとっていきます。小説を読むために注意すべきことを何点か挙げてみましょう。
小説の読解ポイント・基本
- 誰がWho・どこでWhere・いつWhen・何をWhat・なぜWhy・どのようにHow・どうしたか(どう思ったか)を把握する。
- 登場人物の数、各人の性・年齢・身分・職業・性格、人物相互の関係、主人公は誰かなどを把握する。人物相互の関係をつかむためには、特に敬語に注意する。人物名はしばしば代名詞で呼ばれているので、それぞれの人称代名詞がどの人名と結びつくかを明らかにする。また、同一人物が別の名でよばれていることもあるので注意する。
- 場面の転換、人物の出入り、事件の推移によって文章を区切り、事件の推移に伴う主要人物の心理の推移を捉える。
- 会話と、人物が心中に思っている事柄の叙述とを判別しながら読む。
- 自然描写は登場人物の心情の象徴として描かれていることがあるので、情景の描写と人物の心理との関連に注意を払う。
- 表現・文体の特色を捉えることに努める。
小説の読解ポイント・発展
- 時代状況に鑑みた上で読む。小説は、それが書かれた時代背景と切り離して読むことはできない。小説は心情を中心に描かれる、というのは周知の通りである。とすれば心情の「原因」を構成する社会的な状況を見逃すことはできない。不可解な作中人物の言動も、当時の社会的な文脈においてみればごく自然なことであるかもしれない。特に戦争や政治動向の変化は、小説が書かれた動機そのものに直接関わってくることも多く、重要である。
- 作者について知る。小説は、描かれた仮想現実を読者が読むことで、あたかもその登場人物になり代わったかのように、物語を体験していくものである。この仮想現実を形成するのは作者の想像力であるから、作者について知ることが必要である。しかし一方で、作者に関する知識が作品を解釈する上での大前提となることは避けねばならない。作品について深く考えていく中で、作者について調査するとよいだろう。
本作品の舞台は戦時中の日本です。このような時代設定がとられた理由や、作品に与えている効果を考えてみましょう。そして「海と毒薬」というタイトルにはどのような意味がこめられているのでしょうか。遠藤周作は自身が敬虔なキリスト教徒であり、キリスト教の信仰に関わる題材をとったものが多くあります。本作品においてもキリスト教徒である西洋人ヒルダと、日本人とが象徴的に対比されて描かれています。
書籍末尾の解説では、「取上げられた事件は、センセーショナルな残酷物語だが、これはじつは、一つの倫理的、さらには宗教的な寓話の試みなのである」(198ページ)とある。遠藤周作がこの「寓話」に託して問いかけていることは何なのでしょうか。
以上を踏まえて、日本人にとっても「罪」や「罰」、あるいは「良心」について意見を出し合いました。講師解答例は次のとおりです。
講師解答例1
「罪の文化・恥の文化」という言葉がある。西欧においては倫理観というものは、自己の内部にある絶対的で不動のものであり、各人はそれに従って良心的に行動する。これに対して日本人は個人の内部における絶対的な基準を持たず、周りの人の目にどう映るかを基準として、「罪」意識ではなく「恥」意識によって行動する。つまり日本人にとっての倫理観は、自分の所属する集団に沿う形で形成されるものだと言える。しかしこのような倫理観も年々失われているように私は思う。
かつて日本人は地縁・血縁共同体の中で生活していた。場所や血縁に基づく共同体に縛られ、その共同体の一員として、調和を乱さず助け合うように生きていた。日本人にとっての倫理観とは、自分の所属する「集団」を存続させる性格を持ったものだったと言える。しかし時代の変化に伴いそのような共同体は崩壊した。最近の若者はお年寄りを大切にしないとよく聞くが、お年寄りを含む共同体の中で生活しなくなったために、そのような倫理観が身についていないのである。今では共同体が成立させる倫理観が失われ、自己の内部に倫理観を持たない日本人は、何を価値判断の基準とすればよいかわからなくなりつつある。
私は、現代日本人の倫理観はひどく流動的で、社会の風潮、特にメディアの影響をすぐに受けてしまうものだと感じている。倫理観からは少し逸れるが、価値判断がメディアに大きく左右されるわかりやすい例がある。ここ数年短命の内閣が続いているが、それらに共通することとして、発足当初の支持率は比較的高いのに、あっという間にそれが低い数字になることが言える。成立して間もない内閣には成果も失敗もまだない。にもかかわらず評価がすぐに下がるのは、マスコミが発足時は称賛し、いざ始動するとすぐに非難を始めることに起因している。ある事象に対する視線が、メディアが批判的であるか称賛的であるか同情的であるか、その取り扱い方に左右されてしまっているのである。
共同体が失われ、何をもって「罪」とするか、どのような「良心」で物事を見るか、今ではメディアが価値観を形成させる。生活に立脚した共同体と異なり、メディアの発言は偏った視点・扇情的なものも少なからずある。これを個人個人が見極めていくのは難しい。現代の倫理観をどこに求めるのか、家族や学校といった現代に残る共同体に任せてしまうのか、考えていかなければならない問題である。
講師解答例2
「罪の意識をもたなければ、良心の痛みも感じることができない。日本人とは、一体どのような存在なのか」。本作品において遠藤周作はこう問いかけているがそうではない。むしろ、他人を思いやることができるからこそ生まれる罪悪感や良心の呵責が、日本人にはある。
「集団主義」「人間関係社会」を基盤とする日本では、自分の属する集団の損益によって人々の倫理観が決められる。つまり、日本人にとっての罪とは所属する集団へ損をもたらすことであり、罰とは、そうすることで属する集団からの自らに対する評価を下げることにある。したがって日本人にとっての良心とは、同じ集団へ所属する自分以外の人を、些細な事情で集団から切り離させることがないように尽力することである。
この考え方に基づくと、良心は決して一様ではなく状況によって変化する。なぜなら、個人の価値観で善と判断した行動でも、俯瞰して集団に損をもたらすならば、それはその集団にとっては悪とみなされるからだ。これは筆者も主張するように、キリスト教に基づく罪と罰の意識とはまるで異なる。キリスト教における罪や罰というのは常に絶対的で、ともすれば死後においてまで影響を与えるものであるのに対し、日本人は、生きている間に必ず所属せざるを得ない集団に重きを置いているというわけである。
しかしこの集団を軸とした意識は、決して悪いことばかりではない。例えば先の東日本大震災の折、混乱に乗じて盗みを働いた日本人はほとんどおらず、規則正しく配給を受け取っていた。また当時、物資輸送の迅速さは世界でも話題になったものだ。これは日本人が、被災地もまた自分が所属している集団のひとつであると考えた結果であろう。言い換えれば、略奪によって被災者に更なる被害を与えることを罪だと、その罪によって受けるであろう周囲からの非難を罰だと、だからこそ自分が所属している集団において孤立しかねない被災者の人たちへ協力することが良心であると、暗黙のうちに分かっていたということだ。
たしかに、罪や罰の概念が集団によって規定される日本人の良心は、個人の意志よりも集団的心理が優先される傾向にはある。しかし、その集団という枠組みを柔軟に変化させることができれば、多くの人にとって住みよい社会を形成することができるはずである。