想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』講師解答例

課題B

この書籍は「ドキュメンタリーとは何か」「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」という答えのない問いに対し、前へ進む冒険旅行であると筆者は述べている(プロローグ・エピローグより)。

「旅の終着点がどこなのか……それは相変わらずよく分からない」が、「今回の冒険旅行の旅路で見える景色を、少しでも楽しんでいただけたなら、僕としては嬉しい限りである」(244ページ)と筆者は述べる。

あなたがこの書籍を通して心に残った景色を一つ選び、それについて自由に論ぜよ。

講師解答例

講師解答例1

この書籍の中で、私の心に強く残っているのは、著者の義父が支援していた橋本至郎さんが戦争体験を語る場面である。ネズミの糞が散乱する部屋で、上はシャツにネクタイ、下は股引姿の九一歳の老人が「僕も兵隊行っとったからなあ」と語り出す場面は映画『Peace』の重心となるシーンである。

ここでは、「命を捨てることが兵士の誇り」、「人の命の値段は一銭五厘」といった話が体験者の口から語られる。だが、私がこの場面を「心に残る景色」と感じる理由はそこにはない。召集令状が来たら否も応もなく出征しなければならなかった、といった体験談は戦争をテーマにしたドキュメンタリーでは珍しいものではない。私が興味を惹かれたのは、むしろその語りの“陳腐さ”にある。想田氏は「全身に鳥肌を立てながら、そのシーンを撮り続けた」と述べているように、この語りをカメラに収めることができたことによって、思いがけなく「平和と共存」というテーマにつながったと考え、それをいわゆる「セレンディピティ」だと感じているようだが、私にはむしろ橋本至郎という魅力的な人物が、数百万の戦争体験者の一人に“成り下がった”と思えるのだ。

おそらく、そのような現象を引き起こすという点にこそ、カメラの視線というものの本質があり、ドキュメンタリーの逆説的性質があるのだろう。想田氏自身が直観しているように、カメラは無色透明な点になりえないし、カメラを携えた想田氏は確かに橋本さんの部屋に存在している。その存在、その視線は、対象に何らかの変化を生じさせずにはおかない。物理学では、電子を見ようとすると光子との相互作用によって電子の軌道が変わってしまうというような変化を「観察者効果」と言うが、ドキュメンタリーでも観察者が対象を変化させるのだ。想田氏のカメラがなければ橋本さんは戦争体験を語らなかっただろうし、山さん夫婦の喧嘩も違ったものになっていただろう。ひょっとすると、猫たちも……?

カメラは真実を写し取ろうとする。だが、カメラを向けた途端、真実は姿を変える。かといって、盗撮はモラルにもルールにも反するし、そもそも、盗撮で切り取られた「ありのまま」が真実だという保証はない。だから作家は永遠に解消することのないもどかしさを抱えながらもカメラを向けるしかない。

だとすると、作品を観る私たちも「変化した真実」を前提として作品に対峙するしかないのではないか。生成した物質から化学反応前の物質を推定するように、カメラの前で姿を変えた真実から別の真実を析出する。こうした見方はさらに、「私が観たことによって変化する真実」という可能性にもつながっていく。ドキュメンタリーは決して「ありのままの真実」を写せ(映せ)ない。だが、それは「うつせないことによってうつす」という逆説を本質とする「変化する運動体」なのである。

(岡山校授業担当)

講師解答例2

この書籍を通し、私なりに印象に残り、そして考えたのは、映画『Peace』に採りあげられた柏木夫妻の福祉活動だ。筆者の義父たる「柏木の父」は自らの退職金で福祉車両を購入し、全く利益が生まれないにもかかわらず高齢者や障害者を運び続けてきた。「柏木の母」もホーム・ヘルパーとして、自己負担部分が多いのに活動を続けている。

私は「ボランティア活動は素晴らしい行いであり、みんながすべきだ」などと述べたいわけではない。これはあまりに当たり前で、筆者の言うところの「正し過ぎる」意見にすぎない。それよりも私は筆者の次の言葉が心に残った。「映像の中の彼らを眺めていると、政府からの十分な援助や、機能的な社会福祉のシステムなどを期待することはとっくの昔にあきらめていて、目に見える範囲、顔の見える範囲での助け合いの活動を、淡々とやっているように見える」。

思うに近現代は、自分の見える範囲で世界が終わるような時代ではない。億の人口を抱える近代国家の内部はほぼ均質に管理されているし、企業は他国へ進出する。第一次・第二次産業の従事者よりも、形のないものを動かす第三次産業の従事者が圧倒的に多い。書店に行けば「グローバル社会で生き残る」「無一文から〇億円を稼いだ」などの見出しが目に付くし、一般人がブログで世界中に語りかける。人々は地道で目立たない行為を情けなく感じ、大きなことをしなければ意味がないと考える。若者の投票率の低さは、自分の一票は政治に影響しえないという無力感に端を発している。

しかし、私たち一人一人のなすべきは本当に大きなことだろうか。もちろん大きな仕事に向いている人間もいて、彼らは彼らにしかできないことをするべきだろう。しかしそれができない人もまた、彼らにしかできないことが役割として存在する。大きな力がいくらでも動く現代においては自分の力は確かに小さく感じるが、それに無力感を抱く必要はないのではないだろうか。

「顔の見える範囲での助け合いの活動を、淡々とやる」。自分を偉いとも思わず、逆に無力感に逃げ込むのでもなく、できることを毎日やっていく。何事にも揺らがずに一番強くいられるのは、結局この姿勢ではないだろうか。

(東大館授業担当)

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