リベラル読解論述研究
講師解答例

丸山圭三郎『言葉とは何か』

丸山圭三郎『言葉とは何か』について

リベラル読解論述研究では、『言葉とは何か』(筑摩書房)を扱いました。この書籍を使って言語学の基礎を学びました。特に次のような言葉は難しいですが、ぜひとも理解しておきましょう。今後、言語に関する話を読むときに必要な知識になります。

  • 「ランガージュ」=人間の普遍的な言語能力、抽象化能力、象徴能力、カテゴリー化能力
  • 「ラング」=多種多様な言語共同体で用いられている国語体で、社会制度
  • 「パロール」=特定の話し手によって発せられた具体的音声の連続
  • 「シーニュ(言語記号)」=シニフィアン(表現)とシニフィエ(意味)を同時に備えた二重の存在

丸山圭三郎はソシュール研究者の第一人者です。ソシュールの登場前後で言語というものの捉え方がどのように変わったかについても理解しておきたいところです。

2013年の東京大学前期試験の国語第1問(文理共通問題・現代文)では湯浅博雄『ランボーの詩の翻訳について』が出題されました。これらの基礎を押さえていれば非常に読みやすい文章です(リベラル読解研究では幅広いジャンルから書籍を取り上げ、その分野の根底にある基礎的な概念をしっかりと学んでいきます)。

書籍を読解し、論点を抽出した後、意見を出し合いました。

課題

指定書籍と議論を踏まえ、言語に関するあなたの考えを論じなさい(1200字以内)。

講師解答例1

言葉とは何か。これを「方言」の次元で再考してみると、「標準語」の異様さに気づくことになる。ここでは、「方言」から「標準語」への翻訳という視点を用いて説明してみたい。

本書で指摘される通り、諸言語と指示される事物・意味は、一対一に対応していない。それを強く実感させるのは、翻訳という作業だろう。たとえば、「愛」を機械的に「amour」と仏語に訳した時、何か意味がずれているように感じられることがある。これは「愛」と「amour」でその意味する範囲が大部分重なり合いながらも、部分的に同一ではないからだ。翻訳とはこのように、「ずれ」を自覚しながら行う営為といえるだろう。

ところが、首都圏以外の人間が標準語を使用する際に同様の現象が起こっているにも関わらず、当事者は「翻訳している」という実感をもっていないことが多い。所謂「関西弁」の語彙には「標準語」の語彙ではその概念を言い尽くすことの出来ない表現が存在する(だからこそ「関西弁」と呼ばれる)が、時折関西弁で伝えたいことを標準語で表現しなくてはならない状況が存在する。この時に、「あかん」を「いけない」と表現することは正しいだろうか。意味範囲は重なっているが、その「ずれ」は大きなものである。「あかん」が共同体の中での歴史の共有によって関西弁というラングの中の一語彙となり、個人のパロールとして実用されると考えるならば、「いけない」という言葉を使用しなくてはいけない状況とは、翻訳が強制されているのに近い。強制されているならば、自分が今「翻訳をしている」という意識を持つのが自然である。しかし関西の人間は標準語を使用する際に、「翻訳している」とは別段思っていないのである。

標準語の使用が要求されるのは公的な場であることが多いが、我々日本人はその規律、すなわち公的な場では標準語で話さないと失礼にあたるということを無意識に受け入れている。しかし、東京の言葉が正式な「標準」として措定されたのは近代以降である。それが日本人の潜在意識下で共有されるまでに至っているというのは、改めて考えてみれば異様なことではないだろうか。無数の方言の集合体が日本語の実態であるにも関わらず、「標準語」の存在はそういった方言を捨象し、「日本語」という言語が絶対的な一つのものとして存在するかのように諸概念を統合してしまう。したがって、「標準語」は、それ自体で単一の言語としての「日本語」という概念を成立させ、さらに日本人のあるべき振る舞いを規定しているという異様さを持っていると言えるのである。このように見れば、「言葉」とは、人が社会をどう捉え、社会の中でどのように生きるかを定める異様なものとしての一側面を持っていると言えるのかもしれない。

講師解答例2

ある言語と別の言語とでは言葉が指し示す内容は必ずしも一致していないと本書では述べていた。これは日本語やフランス語というラングの水準に限った話ではないと私は思う。ラングを共有する人たちの間でも、言葉の指し示す内容が異なるということがしばしばある。

たとえば、私がある大学の入試問題を解いていて「難しい」と思い、友人に尋ねたところ、その友人は、そうでもない、と答えることがあった。時には、簡単だった、と言うことさえあった。その時私は自分の勉強が足りないと思って恥ずかしくなったが、またある時に今度はその友人が、私が簡単だと思っていた問題を「難しい」と言って同意を求めてくるということがあったのだ。私は当惑した。最初私は、その友人は、以前私が難しいとある問題に対して言ったときは強がりを言っていたのだと思った。しかし次第に、私とその友人とでは、「難しい」という言葉で意味しようとしていることが違うのだ、という考えの方が適当である感じを得た。

本書の言葉を借りるならば、「難しい」という言葉は記号である。けれど記号の指す内容は一様ではない。「虹」と言えば七色の空に架かる橋をイメージするが、日本語の「藍」と「青」に分けられるところが英語ではブルーの一色になり、計六色の色がイメージとして浮かび上がってくる。このような違いはラングの違いによるものだろうが、私が感じた、同一ラング間での同一単語でも違いが生じるということは何によるのか。

この問いに私は、言葉は形の定まらない窓枠なのだという比喩で答えたいと思う。形というと意味する対象の範囲が広すぎるのならば、大きさ、と言い直してもよい。

かりに言葉によって意味される内容の世界が一つの家の窓の外に広がっている世界のようなものだとしたら、ある言葉は無限に広がるその世界から、ある一定の区画を切り取るものと言える。無限に広がる世界に対して、少なくともこの向きで見てくださいねというある種の制限を加えるもの、それが言葉なのだと思う。しかし、窓枠としての言葉には先に述べたように大きさの固定というものがないから、その枠から見える範囲は変わってくるはずだ。窓枠からの距離は考えないとして、だが。この見える範囲の違いが、私が疑問に思っていた、同じ言語内の同じ言葉であってもその指し示す内容が違ってくるということの説明になるのではないかと思う。

それではその窓枠の大きさの違いを生じさせるものは何か。私は、それこそが本書において述べられてきた、ある言語を話す人々がその言語とともに背負うことになる「文化」にあたるものであり、ある単語を発する人がその単語に込めた、話者の生活や人生そのものなのだろうと思う。

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