リベラル読解論述研究
講師解答例

想田和弘
『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』

想田和弘『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』について

リベラル読解論述研究では、『なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか』(講談社)を扱いました。今回はメディア論です。

台本とわかりやすさ、ドキュメンタリーとフィクションの関係。3・11とメディア。「観察映画」とは何か。さらにはドキュメンタリーの面白さ、そして「映画が連れていってくれる場所」とは? 著者は「作り手がピッチャーなら、観客はキャッチャーではなく、バッターだと思っている」(226ページ)と述べています。これらについて討論し、意見を出し合いました。

授業の最終講で扱った課題と講師解答例は次の通りです。

課題A

筆者は「台本主義的な発想」が「我々が住む文明社会の隅々に浸透している」(245ページ)と述べる。具体例を一つあげ、それについてあなたの考えを自由に述べよ。

講師解答例1

「台本」を言い換えてみる。プラン、スケジュール、予定、筋書き、お約束…。これらの言葉に「通り」を付けた状態を目指すような考え方が「台本主義」であろう。

たとえば、学校の行事である。遠足にしろ運動会にしろ授業参観にしろ、学校側は綿密な台本をつくって臨む。行程表のようなものだけを指すのではない。教師たちの心の中にも「台本」があり、彼らはそれを実行し実現するために、身を削り心を砕く。九時から開会式、一二時楽しいお弁当、一五時紅組と白組が同点で引き分け、「みんながんばったね」で締めくくられる感動の運動会。台本通りに行った達成感は打ち上げのビールをいっそう美味しくするだろう。

なぜこれほどまでに台本にこだわるのか。無論、それはリスクを避けるためである。生徒が事故に遭うリスク、生徒同士が衝突するリスク、生徒の心に傷が残るリスク。さらに、保護者からのクレームという大きなリスクもある。これらを回避するために台本が必要なのだ。いや、少なくとも教師たちはそう考えている。

この図式は、企業と消費者の関係そのものだ。企業=学校は商品=生徒を安全に管理し、最高の状態で消費者=保護者にお届けしなければならない。生徒が学校の行事で怪我をしたり、校内でいじめにあったりするのは、生産ラインで商品に異物が混入するようなものである。そのようなリスクは徹底的に排除しなければならないし、そのためには十全にシミュレートされた台本が必要になる。こうした発想が、学校のみならず、私たちの生きる文明社会に拡がっていくのは自明の理であろう。なぜなら、この文明社会とは高度資本主義社会であり、この社会が信奉しているのは「安心と安全」だからである。

だが、こうした発想が脆弱であることを、私たちはつい最近身をもって知ったではないか。東日本を襲った地震と津波の前で、台本はまったくの無力であった。「想定外」という言葉が繰り返し用いられたことが、「想定された台本」の脆さ弱さを証し立てていた。

もちろん、地震国日本で様々な事態を想定してシミュレーションをしておくことがまったくの無意味だなどと言いたいのではない。私が言いたいのは、それを「台本」のように捉えたり、その実行に執着したりしてはならない、ということだ。自然は台本通りにはならない。そして、人間もまた自然であり、社会は人間の集積である。ゆえに、人間も社会も台本通りになど行くはずはないし、そこにこそ生きることのおもしろさもある。台本主義者たちはそうした本質も生きることのおもしろさも見失って、自ら資本主義の囚衣を着こんでいるのだ。

まずは教育現場から、その囚衣を脱ぎ捨ててみてはどうだろうか。想定外を楽しみ、オフロードで経験を積む。そのような環境で育った子どもたちは将来、台本主義のリスクから社会を、人間を、救ってくれるであろう。

講師解答例2

「幸せな人生を送るには、有名な大学に入って一流の企業に就職し高い収入を得なければならない」。このような考えが社会に浸透してきたのは一体いつからだろうか。学歴を問わず高い地位や名誉を得ている人や、贅沢ができなくても家族仲良く健康に過ごせることに幸せを感じられる人がたくさんいるにもかかわらず、である。大学進学率は50%を超え、就職浪人などしようものなら社会の主流から外されてしまう。世間体のため、プライドのため、ただ周りに流されて大学に入学し上司に命令されるままに働く。知識を深め、やりがいを感じられる仕事をするという本来の目的が、「台本主義的な発想」によりいつの間にか失われてしまった。

私は、ある程度の「台本主義的な発想」は仕方のないことだとも思う。大多数の人が主張することを信じて受け入れるというのは、人間の心理として普通のことであり、それに異議を唱えるのには勇気がいるからだ。ただし、多数派が真実だとは限らないし、今問題がなくとも将来的には何らかの懸念が生じるかも知れない。つまり、ある命題を一つの考え方としてとらえるのは良いとして、それを盲目的に信用してしまうことに問題があったのではないだろうか。

人類はこれまで、多くの「台本主義的な発想」を打開してきた。「地球は丸い」ということが古代から信じられていたわけでもなければ、「天動説」が常識とされていた世界で何の抵抗もなく「地動説」が受け入れられたわけでもない。軍国主義や帝国主義を掲げていたかつての日本では戦死することが誇りであって、橋本さんによれば「男は一銭五厘」の価値しかなかった。そのような過ちを犯しながらも、客観的な視点を持つ誰かの小さな声に耳を傾けることで、少しずつ正しい方向へ進んできたのだ。そう考えれば、これはとても人間らしい営みにすら思えてくる。忘れてはならないのは、何が正解で何が間違っているかは誰にも決める権利はないということだ。いつの時代も、常に広い視野をもち多角的に物事を見ることが求められているのである。

(東大館授業担当)

課題B

この書籍は「ドキュメンタリーとは何か」「なぜ僕はドキュメンタリーを撮るのか」という答えのない問いに対し、前へ進む冒険旅行であると筆者は述べている(プロローグ・エピローグより)。

「旅の終着点がどこなのか……それは相変わらずよく分からない」が、「今回の冒険旅行の旅路で見える景色を、少しでも楽しんでいただけたなら、僕としては嬉しい限りである」(244ページ)と筆者は述べる。あなたがこの書籍を通して心に残った景色を一つ選び、それについて自由に論ぜよ。

講師解答例1

この書籍の中で、私の心に強く残っているのは、著者の義父が支援していた橋本至郎さんが戦争体験を語る場面である。ネズミの糞が散乱する部屋で、上はシャツにネクタイ、下は股引姿の九一歳の老人が「僕も兵隊行っとったからなあ」と語り出す場面は映画『Peace』の重心となるシーンである。

ここでは、「命を捨てることが兵士の誇り」、「人の命の値段は一銭五厘」といった話が体験者の口から語られる。だが、私がこの場面を「心に残る景色」と感じる理由はそこにはない。召集令状が来たら否も応もなく出征しなければならなかった、といった体験談は戦争をテーマにしたドキュメンタリーでは珍しいものではない。私が興味を惹かれたのは、むしろその語りの“陳腐さ”にある。想田氏は「全身に鳥肌を立てながら、そのシーンを撮り続けた」と述べているように、この語りをカメラに収めることができたことによって、思いがけなく「平和と共存」というテーマにつながったと考え、それをいわゆる「セレンディピティ」だと感じているようだが、私にはむしろ橋本至郎という魅力的な人物が、数百万の戦争体験者の一人に“成り下がった”と思えるのだ。

おそらく、そのような現象を引き起こすという点にこそ、カメラの視線というものの本質があり、ドキュメンタリーの逆説的性質があるのだろう。想田氏自身が直観しているように、カメラは無色透明な点になりえないし、カメラを携えた想田氏は確かに橋本さんの部屋に存在している。その存在、その視線は、対象に何らかの変化を生じさせずにはおかない。物理学では、電子を見ようとすると光子との相互作用によって電子の軌道が変わってしまうというような変化を「観察者効果」と言うが、ドキュメンタリーでも観察者が対象を変化させるのだ。想田氏のカメラがなければ橋本さんは戦争体験を語らなかっただろうし、山さん夫婦の喧嘩も違ったものになっていただろう。ひょっとすると、猫たちも……?

カメラは真実を写し取ろうとする。だが、カメラを向けた途端、真実は姿を変える。かといって、盗撮はモラルにもルールにも反するし、そもそも、盗撮で切り取られた「ありのまま」が真実だという保証はない。だから作家は永遠に解消することのないもどかしさを抱えながらもカメラを向けるしかない。

だとすると、作品を観る私たちも「変化した真実」を前提として作品に対峙するしかないのではないか。生成した物質から化学反応前の物質を推定するように、カメラの前で姿を変えた真実から別の真実を析出する。こうした見方はさらに、「私が観たことによって変化する真実」という可能性にもつながっていく。ドキュメンタリーは決して「ありのままの真実」を写せ(映せ)ない。だが、それは「うつせないことによってうつす」という逆説を本質とする「変化する運動体」なのである。

講師解答例2

この書籍を通し、私なりに印象に残り、そして考えたのは、映画『Peace』に採りあげられた柏木夫妻の福祉活動だ。筆者の義父たる「柏木の父」は自らの退職金で福祉車両を購入し、全く利益が生まれないにもかかわらず高齢者や障害者を運び続けてきた。「柏木の母」もホーム・ヘルパーとして、自己負担部分が多いのに活動を続けている。

私は「ボランティア活動は素晴らしい行いであり、みんながすべきだ」などと述べたいわけではない。これはあまりに当たり前で、筆者の言うところの「正し過ぎる」意見にすぎない。それよりも私は筆者の次の言葉が心に残った。「映像の中の彼らを眺めていると、政府からの十分な援助や、機能的な社会福祉のシステムなどを期待することはとっくの昔にあきらめていて、目に見える範囲、顔の見える範囲での助け合いの活動を、淡々とやっているように見える」。

思うに近現代は、自分の見える範囲で世界が終わるような時代ではない。億の人口を抱える近代国家の内部はほぼ均質に管理されているし、企業は他国へ進出する。第一次・第二次産業の従事者よりも、形のないものを動かす第三次産業の従事者が圧倒的に多い。書店に行けば「グローバル社会で生き残る」「無一文から〇億円を稼いだ」などの見出しが目に付くし、一般人がブログで世界中に語りかける。人々は地道で目立たない行為を情けなく感じ、大きなことをしなければ意味がないと考える。若者の投票率の低さは、自分の一票は政治に影響しえないという無力感に端を発している。

しかし、私たち一人一人のなすべきは本当に大きなことだろうか。もちろん大きな仕事に向いている人間もいて、彼らは彼らにしかできないことをするべきだろう。しかしそれができない人もまた、彼らにしかできないことが役割として存在する。大きな力がいくらでも動く現代においては自分の力は確かに小さく感じるが、それに無力感を抱く必要はないのではないだろうか。

「顔の見える範囲での助け合いの活動を、淡々とやる」。自分を偉いとも思わず、逆に無力感に逃げ込むのでもなく、できることを毎日やっていく。何事にも揺らがずに一番強くいられるのは、結局この姿勢ではないだろうか。

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