リベラル読解論述研究
講師解答例

鷲田清一
『わかりやすいはわかりにくい?』

鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』について

リベラル読解論述研究では、鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?』(筑摩書房)を扱いました。

生きる意味への問いかけは老若男女を問わず全てのひとを襲う、と筆者は述べています。意味がわからぬままやることは苦痛で、納得いかぬまま生きるのはやりきれず、意味という病に取り憑かれて私たちは生きています。加齢とともに意味の組織をわきまえることを求められる一方、いっそ意味など面倒を考えずに済ませたいとも考えがちです。そんな未熟者も、大事なことには答えがなく、問い続けること自体が答えることだとやがて気づくのだと筆者は言います。つまり、わかりやすい物語に飛びつかず、自分の鬱ぎを堅牢な論理で把握し直すことから問いは始まるのだというわけです。エコなどの正面から反対しにくい問題に関する発想は思考にためがなく、わかったものだけで解釈することの危険性を把握していません。

逆説的ですが、いつでも未熟になれる可能性を含んでこそ、ひとは成熟したと言えます。現代の市民として肝要なのは、理解不能なまま事態に正確に対処する智恵を持つ成熟さと、わからないまま感受性が開かれている未熟さなのです。例えば政治の場面では結果が見通せなくても、正確に対応するべく決断しなければならない。異なる立場の者同士が意見を交わしながら社会を運営してゆける能力が重要であり、同調しえぬ他者がいる事実を受け止め、どう摺り合わせてゆくかという智恵と対話の技量こそ市民に求められます。やはり成熟した市民の条件は、どれだけ未熟で大人げない夢を見られるかにかかっていると言えるのかもしれません。

以上を踏まえて、「生きる意味」について意見を出し合いました。

講師解答例

われわれはつい「人生に生きる意味はあるのか」と問うてしまいがちだ。それはちょうど生徒や大学生が「勉強は何の役に立つのか」「なぜ勉強しなければならないのか」と問うてしまうのと同じである。しかし、若者が惰性で問いがちなことを自身に問いかけるなら、むしろ「学校で教えられた知識を役立てるにはどうしたらいいか」「大学で学んだことを今後の人生でどういう風に役立てようか」という問い方になるはずだ。

これと同様に「生きる意味」はむしろ各自が人生から問われているとフランクルは言う。しかし「ホモ・パティエンス」というフランクルの答え方は性急すぎるように思われる。そもそも「生きる意味」などという法外な、途方もない問いに答えられるだろうか。著者も述べるように、それを問い続けること自体が答えることなのではないか。とはいえせっかくなので、これまでの人生の中間考察としてまとめてみるのも悪くあるまい。

不遜にも「生きる意味」を答えようとする意志があるならば、まず「学ぶ」必要があろう。というのも、他者の意見を軽視し、森羅万象から学び・問うことなく、何のためもないまま短絡的に出された答えなぞ読むに耐えないのは明白だからだ。死ぬまで学び続け、問い続けることが不可欠だろう。それは「学ぶ」ことを学ぶこと、つまり学習の仕方そのものを学習すること(認知科学では「メタ学習」と呼ぶ)であるように思われる。

そして何よりも、楽しみながら学び続ける能力、メタ学習の持続を楽しめるかどうかが最重要ではないだろうか。何事も楽しくなければ続けられないとよく言われるからだ。そしてその点にこそ、他者へのホスピタブルな想像力が関わってくるのではあるまいか。さらに言えば「『学ぶ』を学ぶ」の継続力は、近年その重要性が叫ばれる教養とも関連するのではないかと思われるが、ここでは指摘にとどめ、考察の機会は大学入学後に譲ろう。

もし私が人生から「生きる意味」を問われているならば「答えを出すにも学び続ける必要があるため」と返事しておこう。そうすれば、これから先の人生でたとえ大学での学問に戸惑っても、就職活動で挫折しても、仕事で忍耐が限界になっても、お金のことで苦しんでも、家族のことで悩んでも、生きる希望を失くしても、いつか忘れた頃に山彦のように戻ってくる日があるかもしれない。むろん「期待することなく待つ」だけだが。

まさに「なんのため」と問いたくなるような真夏の暑さに耐え、究極的な課題に苦悩しながら、しかしそれ以上に楽しみながら、暫定的な仮説を提示できたと思う。額に汗しながら出した答えに人生が納得するかどうかは別問題であるが、以上の考察は、成熟した市民としてなすべき責任=応答・可能性(リスポンシビリティ)の一つだと思われる。

「メタ学習」を継続し「思考のため」を築くことこそ、私にとっての「生きる意味」だ。

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